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座談会

万葉集は英訳のほうが分かりやすいのはなぜか?...古代から現代、日本から世界に羽ばたく「世界文学としての和歌」

2024年03月13日(水)11時00分
上野誠 + ピーター・J・マクミラン + 張競(構成:置塩文)

マクミラン はい。でも、日本の歌の英訳は日本人の財産にもなっていくと思っています。現代の日本人は原文を読めませんから。もちろん日本語の現代語訳も読めますが、英語でも読めますね。

そういう意味で比較すると、英訳するのはとても困難なことですが、現代日本語に訳すほうがはるかに大きな苦労があると思います。

なぜなら現代日本語は根本的に詩的でないからです。『小倉百人一首』の現代語訳を読んでいると、それがたとえキーン先生の言う「説明文」でなくても、詩的に感じにくい面があります。

私はかつて日本の古典を訳してキーン先生から褒めていただき、賞をいただきました(6)。それで翻訳の免許をもらった気分になり、「日本の古典を英訳すればこの素晴らしい国に恩返しができる」と感じました。

ところが『万葉集』に出会ったら、「『万葉集』の英訳は日本への恩返しどころか世界のためになる」という気持ちになりました。それほどまでに『万葉集』のすごさを感じたんですね。

『万葉集』には、私たちが持っている文学にない要素がたくさんありますし、その歌には生まれたての新鮮味を感じます。ですから、私も「今朝書かれた歌のように訳したい」と思っています。

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上野 ああ、「今朝書かれた歌のように」ね。すばらしい──。

 僕は『万葉集』の中国語訳を読むと、『万葉集』の精神はあるかもしれないけれども、日本の『万葉集』とは別の『万葉集』になっていると感じます。中国の古典語に訳されているからでしょう。英語圏で『万葉集』を中世英語で翻訳しようとする人はいないですか。

マクミラン それはないですね。明治時代に最初に英訳されたものは『百人一首』で、いわば文語体でした。当時流行していた例えばテニスンのような、それこそキーン先生が好きだったきれいな言葉になっています。

上野 違和感がありますか。

マクミラン ありますね。なぜ素直に書かないのかなと。中世の英語に訳したら現代のイギリス人は読めません。現代人はシェイクスピアの英語も18世紀の英語もほとんど読めませんから、読んでほしくないのであれば中世の英語に訳しなさい、ということになりますね。

上野先生が現代語訳で目指しているのは、わかりやすさですか。

上野 基本的には、耳で聞いてわかるように訳したい。そして、キーン先生に言われたように、詩になっているように訳したいとは、思っているのですが─。

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