アステイオン

座談会

日本は翻訳大国でありトランスボーダー大国、『万葉集』は世界を代表する翻訳文学である

2024年03月13日(水)10時50分
上野誠 + ピーター・J・マクミラン + 張競(構成:置塩文)

上野 私は大学での4月の最初の授業で、「『文選(もんぜん)(2)』なくして『万葉集』なし」と黒板に書くことにしています。これで言いたいのは、「歌は日常の言語から切り離されたもの」という認識は中国の文学の影響を受けて発達した、ということです。

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『万葉集』はよく日本的な歌集と言われますが、中国文学を学ばなければ『万葉集』の表現は出てこないと思っています。

いきなり今日の話の核心に踏み込んでしまいますが、日本は翻訳大国であると同時にトランスボーダー大国でもありますね。外から新しいものを持ってくることが非常に得意です。

中国という大きな文明圏の周辺国家の1つ、辺境の国で、大きな文明の持つ型が壊れていく場所なんです。その壊し方にこそ「日本文化」があると僕は思う。

典型的な例を1つ言うと、中国の古代文学では基本的に、女性が男性のもとに通って嫁入りする嫁入り婚で、七夕歌などもそうなっています。

ところが日本の場合は、男性が女性を訪ねる通い婚です。『万葉集』は、中国文学を読んだうえで、それをいかに日本での生活に合うかたちにするか、ということを考えて作られたもので、私に言わせれば、中国文学の崩れたものの1つと見ることもできる。まさに国際性を持つ翻訳文学です。

 『万葉集』の編集は確かに『文選』に倣っているように見えます。その一方で、「防人歌(さきもりうた)」などを取り入れているのは、詩三百篇の『詩経』の集め方も念頭にあったとも思えます。

中国には、文人顔負けの民間の良い歌、優れた民謡を集めた「楽府(がふ)」というジャンルがありました。『万葉集』は、天皇から身分の低い人々の歌まである点が大変特殊であると言われますが、それは横を意識する目があったからこそ生まれた豊かさなのではないかと感じるのです。

上野 そのとおりだと思います。『文選』も『詩経』の影響を受けています。それは「民の声はその土地の民謡に表れる」という考え方で、日本でも、国司は「赴任したら必ずその土地の神様にお参りをしなさい。その土地の民謡をよく聞きなさい。そこから生活をよく見なさい」と言われました。

ヤマト王権は東へ東へと行きますね。いわばフロンティアの歌である「東歌(あずまうた)」を、『万葉集』巻十四に集めていることには、1つの意味があると思います。

マクミラン 上野先生は今、「『万葉集』は翻訳文学であり、中国文学の崩れたものだ」とおっしゃいました。

例えば大伴家持(おおとものやかもち)は池主(いけぬし)にラブ・ポエムを送ったり、雨晴海岸(あまはらしかいがん)の風景を詠んだりします。あるいは、言祝(ほ)ぎの歌、過労死の歌、自殺の歌、子供の貧困の歌などがありますが、それらも中国文化にそれぞれ型があるのでしょうか。

上野 型破りというのは型があるからこそできるものです。中国文学、文化には確固とした型がある。それをどういうふうに破っていくか。その破り方に日本の特徴があると思うのです。

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