アステイオン

アメリカ政治

かつて「民主主義の世界的リーダー」ではなかった...「反知性主義」を論じた歴史家ホフスタッターが描いた建国期アメリカのデモクラシーとは

2023年10月04日(水)11時10分
遠藤寛文(防衛大学校総合教育学群講師)

モンローが固執した旧い政党観

19世紀初頭の四半世紀は「ヴァージニア王朝」の時代と呼ばれることがある。ジェファソン、マディソン、ジェームズ・モンローという三人のヴァージニア出身の大農園主が大統領となり、長期にわたって政権を掌握したことを指す言葉だ。

本書において異彩を放つのが、この三者のなかでも特異な政党観を抱いていたモンローをめぐる叙述である。

アメリカ政治思想史の古典『ザ・フェデラリスト』にもあるように、マディソンは政治における党派の害悪を認めつつも、人間の本性上、党派の発生は避けられないと考え、それを前提に自らの憲法案をデザインした。

ジェファソンもまた、フェデラリスト派を嫌悪したものの、実際の政治実践を通して対立政党の存在を受け入れつつあった。

しかし、モンローは違った。モンローは、「党派性なき政治」という共和政の理想を捨てようとしなかったのである。

新世界で復活した共和政の命運は、アメリカのリパブリカン派の存続にかかっており、そのためには政権に対抗する在野政党は根絶されなければならない――このようにモンローは考えた。

モンローの政党観は、ウォルポール期イギリスの貴族ボリングブルックの思想に近似した、多分にユートピア的な世界観であった。

政党の存在意義が徐々に認められ始めていた19世紀初頭の時代に、18世紀の旧い政党観に固執していたモンローのアナクロニズム(時代錯誤)こそ、本書の強調点の一つといえる。

1812年戦争(第二次米英戦争)後には、建国以来の憎悪に満ちた党派対立が影を潜め、国内融和の機運が高まった。にもかかわらず、この時期に大統領に就任したモンローがリパブリカン派以外の政党を容認することは決してなかったのである。

結局、フェデラリスト派は連邦議会でも劣勢となり、連邦政治の表舞台から姿を消していくことになる。いわば、米英戦争を経て、「親英党派」というレッテルを貼られた野党フェデラリスト派の正統性は明確に否認されたのだ。

こうして1820年代には、米国史上唯一となる一党制の時代が訪れたのである。

その後、現在の民主党と共和党の前身にあたる、民主党とホイッグ党からなる二大政党制が成立するが、これらの政党のいずれもが、一党支配を実現したリパブリカン派の党内派閥として生まれたものだったということを忘れてはならない。

かくも長い紆余曲折を経て、野党の存在を承認する政治文化がアメリカの地に根づいていったのである。アメリカにおいても、デモクラシーとは教義などではなく、絶え間ない実践の産物に他ならなかった。

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