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『アステイオン』98号の特集「中華の拡散、中華の深化――『中国の夢』の歴史的展望」を読んでまず考えたことは、「中国」「中華」とは何か、ということである。
岡本隆司氏は巻頭言で、「『中国』そのもの・『中国』人その人たちは、古今さして変わっていない、とみてよい。変わった、ないし変化しているのは、そこをChinaと呼びながら、同時に『中国』『中華』と言ったり、言わなかったりする側のほうではあるまいか」と書く。
「中国」、「中国」人がどれほど変わったかは知らない。しかし、歴代皇帝の下、帝国がそれなりに安定的に統治されている時も、統治機構が壊れて各地で乱が起こっていた時も、「中華人民共和国」なる党国家が「中華人民」を統治している時も、大陸のある領域に「中国」と呼ばれる統治機構とこれを運転する人たちがおり、その統治下に置かれた「中国」人と呼ばれる人たちがいることは間違いない。
そうであれば、この物語の主人公は「国家」、「統治機構」、state apparatusであり、特集のタイトルも「中国の拡散、中国の深化」が相応しいはずである。では、なぜ「中華」なのか。
もっと焦点を絞るべきだと言うのではない。本にはいろいろな編み方がある。私は「ハンガー」と呼ぶが、壁に釘を一本打ち込んで、いろんなものを引っ掛けるように、「中華」ということばが歴史的に「拡がり」「深まり」「変遷していった」ことをわかった上で、このことばを「中国」周辺地域の研究者がどう受け止めるか、このことばで何を考えるかを書いてもらうことは特集として十分ありうる。
実際、本特集を一読しての感想は、「明清交代」に伴う「中華」の再定義、19世紀における「朝貢システム」解体プロセスなど、「中華」ということばで直ちに思いつく問いに応えようとする小論もあれば、台湾、チベット、新疆など、予想外のエッセイもあった。
では、私は「中華」ということばで何を考えたか。本特集の趣旨から外れることを承知で言えば、「中国」国家を運転する人々を理解する上で「中華」がどれほど有用かである。
かつて2010年にハノイでARF(ASEAN地域フォーラム)会合が開かれた。そのとき楊潔篪(ヤン・チエチー)外相(当時)は「中国は大きな国である、ここにいる、どの国よりも大きい、これは事実だ」と言った(J・A・ベーダー著、春原剛訳、『オバマと中国』東京大学出版会、2013年、193頁)。
争点は南シナ海における領有権問題と国連海洋法条約に規定された航行の自由の原則だった。楊潔篪は事実上、南シナ海にはいかなる問題も存在しない、小国はつべこべ言うな、と言った。
vol.101
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