サントリーホールが所蔵するエラールは1867年製だから前記2台より古く、キーも85鍵と少ない。福澤諭吉の孫で仏文学者の進太郎(息子はレーサーの福澤幸雄)がパリのサロンで出会い、譲り受けたピアノで、進太郎夫人で声楽家のアクリヴィ(国立音大声楽科教授)が愛奏していたが、彼女の死後、遺族によって寄贈された。
修復は堺のフォルテピアノ・ヤマモトだが、現在は迎賓館のエラールと同じくベヒシュタインジャパンによって調律・調整されている。
2021年にブルーローズで平河町ミュージックス主催の公演に出演することになったとき、調律師さんから、モダン・ピアノではなく、エラールで弾いてみませんか、と勧められた。
曲目は、新譜CDと新刊本にちなんで「花の物語、花の音楽」。楽器の選択はピタリとはまり、壁に投影した花のデッサンと相まって、簡素な中にかぐわしいサウンドをつくることができたように思う。
ヴィンテージ・ピアノといっても私が弾くのはおおむね1880年代から1920年代に製作されたものだから、古楽器とはいえない。しかし、最近のピアノよりは自分のピアニズムや音楽の方向にフィットするという印象を持っている。
私がピアノの稽古を始めた昭和30年代のピアノ界では、多少荒くても大きな音で「バリバリ弾く」ことが推奨され、試験やコンクールでも評価されていた。
しかるに、師匠の安川先生は、戦前のパリではスタンダードだったプレイエルやエラールでテクニックを培った。師のパリ音楽院教授ラザール・レヴィも、エラールのスタジオにこもって奏法を研究した時代がある。
理想的な薫陶を受けた安川先生が第二次世界大戦の勃発にともなって帰国したとき、日本のピアノ事情は悲惨なものだった。調律・調整が必要なことすら理解されず、ピアノを習う子供たちの多くは響かない畳の部屋で練習し、湿気たピアノで音を出そうとがんばって弾く癖がついた。
そんな中、完全に脱力し、楽器から美しい響きを引き出し、色彩感豊かな演奏をくりひろげる安川先生の演奏は、言外に「弱い」を含んだ「フランス風」で片づけられた。
ヴィンテージ・ピアノは、がんばって弾く奏法には拒絶反応を示す。小学校入学前から安川先生の門を叩き、知らず知らずに植えつけられたタッチの微細なコントロールは、古いピアノでこそ生きる。新しいパワフルな楽器よりも、自分の音楽がより実現できる。
ヴィンテージ・ピアノはモダン以上に個性豊かだ。計算どおりに行かず苦労することも多いけれど、それぞれの楽器の特性がまったく違うので、同じ曲を弾いても新たな発見がある。
その楽器でなければできない表現を求めて、ピアノ行脚はつづく。
青柳いづみこ(Izumiko Aoyagi)
東京都出身。安川加壽子、ピエール・バルビゼの両氏に師事。フランス国立マルセイユ音楽院首席卒業。東京芸術大学大学院博士課程修了。博士(学術)。1990年度文化庁芸術祭賞受賞。『翼のはえた指──評伝安川加壽子』(白水社、吉田秀和賞)、『青柳瑞穂の生涯』(平凡社ライブラリー、日本エッセイスト・クラブ賞)、『六本指のゴルトベルク』(中公文庫、講談社エッセイ賞)など多数。大阪音楽大学名誉教授、日本演奏連盟理事。
「アステイオン」97号
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