アステイオン

昆虫学

「北海道熱」の時代と日本の近代昆虫学の父

2023年05月03日(水)08時00分
奥本大三郎(ファーブル昆虫館館長)

後に日露戦争の時アメリカに渡って、留学時代のつてを利用し、アメリカ大統領ルーズベルトらを説いて、対日援助の世論喚起と資金集めに奔走した金子堅太郎は、札幌農学校の教育の実情を調査し、〝諸事高尚にすぎる〟と、学制改革の必要であることを報告している。

松年はしかし、明治20年に、その札幌農学校予科を受験して失敗したのであった。松村松年、生涯通算6度目の落第である。

仕方がない、西も東も分からぬ北海道で、彼は青木という下宿屋に宿をとり、受験浪人の生活を送ることになった。ここで、温暖な明石育ちの松年は、初めて北海道の冬を体験することになる。時々雪の降る東京の冬も寒いと思ったが、北海道の冬の寒さはそんなものではなかった。

それでも翌年の1月には、農学校予科3級(2年)に入学を許された。松村らの学年は、第13期生になる。明治21年頃の札幌農学校は、今もある時計台を中心にして、化学棟と予科棟の、合計3棟のみから成っていた。

時計台は、1階が寄宿舎であり、2階が広い板張りで、「演武場」と呼ばれており、日頃は柔剣道の道場として使用され、また講堂や式場としても用いられていた。

今、この時計台のあたりは、繁華街、と言うより観光地であるが、当時はまだ、西部開拓時代の街のようで、アメリカ式の都市計画に従って造られた道路があるばかり。広々として、何もなかった。そこにそびえる洋館2階建の校舎は、木造とはいえ、堂々たる建築物に見えたものである。

しかしまだ舗装はされていないから、雨が降れば道はぬかるみ。冬になると雪が積もり、広い道路の、人の歩くところだけが黒くなっている。そして雪が解け、せっかく、桜や鈴蘭の咲く素晴らしい5月が来たと思ったら、こんどは砂塵が舞い上がる、といった具合であった。

しかし北海道の最高学府として、教師も学生も、当然のように、一種の特権意識を持っていた。

生活費としては兄介石からの送金だけが頼りである。学費そのものは官費であるが、衣食住の費用がかかる。洋服は着たきり雀の学生服、食事は麦飯に干したニシンと沢庵、そして味噌汁。食費をこれだけに切り詰めても、まるっきり支送りだけで十分というわけにはいかない。

とにかく、腹が減って仕方がない。もちろん、チョコレートもキャラメルもあるわけがない。間食はもっぱら焼き芋。これを「書生の羊羹」と称し、塩豆を「書生の金平糖」と呼んでいた。

しかしそのほかに、さすがは北海道で、蒸した馬鈴薯に焼きトウモロコシがあった。その点は、東京や大阪より恵まれていた。ただし冬は寒い。


奥本大三郎(Daisaburo Okumoto)
1944年生まれ。東京大学仏文科卒業・同大学院修了、横浜国立大学助教授、埼玉大学教授を経て現職。著書に『博物学の巨人アンリ・ファーブル』(集英社新書)、『虫の宇宙誌』(青土社、読売文学賞)、『楽しき熱帯』(集英社、サントリー学芸賞)。翻訳に『完訳 ファーブル昆虫記』(集英社、菊池寛賞)など。


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 「アステイオン」97号
 特集「ウクライナ戦争──世界の視点から」
  公益財団法人サントリー文化財団
  アステイオン編集委員会 編
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