アステイオン

昆虫学

「北海道熱」の時代と日本の近代昆虫学の父

2023年05月03日(水)08時00分
奥本大三郎(ファーブル昆虫館館長)

国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」にはそうした若者の〝北海道熱〟が描かれているが、登場人物のひとりは、開拓地での新生活の夢をこう語る。

「......田園の中央(まんなか)に家がある、構造は極めて粗末だが一見米国風にできている、新英洲殖民(ニユーイングランド)時代そのままという風にできている、屋根がこう急勾配になって物々しい煙突が横のほうに一ツ...それから北のほうへ防風林を一区画、......それから水の澄み渡った小川がこの防風林の右のほうからうねり出て屋敷の前を流れる......」

そしていよいよ決心して、北海道行きを実行したときの心境については、次のように告白するのである。

「断然と北海道へ行ったその時の心持ちといったらないね、何だかこう馬鹿野郎! というような気持がしてねエ、上野の停車場(ステーシヨン)で汽車に乗って、ピユーッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京のほうへ向いて唾を吐きかけたもんだ。......名利に汲々としているその醜態(ざま)は何だ! 馬鹿野郎! おれを見ろ! という心持サ」

佐藤らの気持ちにも、これと共通するものがあったようである。

学生の英語力

初期の札幌農学校での授業は、ほとんどが外国人教師によるもので、言葉は英語である。学生のほうでも、先に述べた通り、例えば佐藤昌介など、クラーク先生のスピーチを書き取り、直ちに日本語に訳出するほどの力があった。

クラーク先生が、8カ月の任期を終えて帰国してからの第2期生に、内村鑑三と新渡戸稲造とがいるけれど、これらの人々は、のちには英文ですぐれた著書を残すほどの英語力の持ち主である。

夏目漱石、岡倉天心......と指折り数えていくと、明治という時代と同い年ぐらいのこの世代が、日本人としては最も英語が出来る人々を輩出したと言えよう。

もっとも、身もふたもないことを言ってしまえば、後進国のインテリは、英語もしくはそれに代わる外国語が出来なければ、頭角を現すことができないのである。

しかし、それから10年ほど経つと、先生も外国人から日本人の教師に代わるし、日本語の授業が増えてくる。

政府としては初めからそのつもりだった。最初は欧米から、破格の待遇で思い切り優秀な人物を雇い入れる、そうして、その後継者となりうる日本人を養成して、日本人で学問をやっていくのである。

その方針が実現して、札幌農学校の教育レベルはぼつぼつ、普通の学校とそれほど変わらなくなってきた。そして、クラーク先生時代のようなキリスト教教育は、当局の方針とは合わなくなっていく。

アメリカの理想主義者らは、農学の専門教育そのものよりはむしろ、教養を高め、人格を高めんとする教育を目指したのだが、近代化を急ぐ明治政府の為政者らは、実学の比重を大きくして本来の、北海道開拓に役立つ学校にせよ、と急ぐのである。

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