国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」にはそうした若者の〝北海道熱〟が描かれているが、登場人物のひとりは、開拓地での新生活の夢をこう語る。
そしていよいよ決心して、北海道行きを実行したときの心境については、次のように告白するのである。
佐藤らの気持ちにも、これと共通するものがあったようである。
学生の英語力
初期の札幌農学校での授業は、ほとんどが外国人教師によるもので、言葉は英語である。学生のほうでも、先に述べた通り、例えば佐藤昌介など、クラーク先生のスピーチを書き取り、直ちに日本語に訳出するほどの力があった。
クラーク先生が、8カ月の任期を終えて帰国してからの第2期生に、内村鑑三と新渡戸稲造とがいるけれど、これらの人々は、のちには英文ですぐれた著書を残すほどの英語力の持ち主である。
夏目漱石、岡倉天心......と指折り数えていくと、明治という時代と同い年ぐらいのこの世代が、日本人としては最も英語が出来る人々を輩出したと言えよう。
もっとも、身もふたもないことを言ってしまえば、後進国のインテリは、英語もしくはそれに代わる外国語が出来なければ、頭角を現すことができないのである。
しかし、それから10年ほど経つと、先生も外国人から日本人の教師に代わるし、日本語の授業が増えてくる。
政府としては初めからそのつもりだった。最初は欧米から、破格の待遇で思い切り優秀な人物を雇い入れる、そうして、その後継者となりうる日本人を養成して、日本人で学問をやっていくのである。
その方針が実現して、札幌農学校の教育レベルはぼつぼつ、普通の学校とそれほど変わらなくなってきた。そして、クラーク先生時代のようなキリスト教教育は、当局の方針とは合わなくなっていく。
アメリカの理想主義者らは、農学の専門教育そのものよりはむしろ、教養を高め、人格を高めんとする教育を目指したのだが、近代化を急ぐ明治政府の為政者らは、実学の比重を大きくして本来の、北海道開拓に役立つ学校にせよ、と急ぐのである。
vol.101
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