まず、東京から仙台までが13時間半かかった。もちろん、自分の足で歩くよりはましだが、座席にじっと座っているだけでも疲れる。やっとたどり着いた、その仙台の駅で5時間、青森行きの列車を待たなければならない。
列車が来てようやく乗り込むと、それからまた16時間我慢をして、津軽の地青森に着く。ここまでたどり着くだけでも遠かったが、今度は荒海を貧弱な船で渡るわけである。18時間かけて津軽海峡を渡り、室蘭から、さらにまた延々と汽車の旅が続く。そうしてようやく、札幌に着くのであった。
明治20年、松村がはじめて札幌に行った時は、「上野─青森」間が全通していなかったから、さらに時間と忍耐を要した。
東北の雰囲気は、始発駅である上野の駅に漂っている。列車に乗ろうと、早朝、続々と集まってくる乗客と、その見送りの人々の、言葉はもちろんのこと、顔つき、物腰がすでにもう、東北を思わせる。
車内にいても、この人たちが何を言っているのか、関西人の松村には聞き取れない。さながら異国というか、別世界である。
それにしても、東京にはこんなにも多くの東北人が集まっていたのか、と彼は今更のように感心した。3等車の硬い座席にじっと座って、顔も首筋も、煤煙で真っ黒になりながら、がたんごとんと、昼も夜も揺られ続けるのである。いい加減尻も背中も痛くなる。
連絡船で荒海を渡り、北海道で列車に乗ると、俄然、外の景色が変わった。
「やっぱり北海道は広いなあ」と松年はつくづく思う。どこまでいっても、人家なぞはほとんど見当たらず、今にも熊が出るかと思うような、深いトドマツの原生林が続く。途中幌別、富浦、登別......と、小さな駅に止まるけれど、いかにも寂しそうで、こんなところでも人は暮らせるものかと、不思議に思うほどである。
汽車が止まったから、駅かと思って窓の外を見ると、にわか造りの、文字通り荒削りの木製の台がプラットフォームの役を果たしているばかり、という時さえある。これが仮乗降場というもので、駅員なぞはおらず、丸木の柱に墨で駅名を書いた札が打ちつけられていて、そこからただ一本の細い道が、森の中に心細く消えている。
もちろんこれでも、黙って座っていさえすれば目的地に着くのであるから、汽車はありがたい。自分の足で歩いた時代のことを思えば大変な進歩である。
vol.101
毎年春・秋発行絶賛発売中
絶賛発売中