松村松年肖像(昭和29年1月5日撮影)出典:『松村松年自伝』
松村は、東京にも昆虫採集の道具を持ってきていたが、学校のある富士見町のあたりには蝶の採れるようなところもなく、松年はもっぱら、その頃学生間に流行った「ベースボール」ばかりしていた。
1年ばかりも経った頃、兄の所に明治学院時代の同級生で、後に札幌農学校に進み、北海道庁の官吏になっていた、和田健三という農学士の友人が訪ねてきた。和田は、松年の話を聞くと、「それなら、札幌農学校に来てはどうか。いや是非来い。北海道には未来があるぞ」と、熱心に勧めてくれた。
彼はのちに札幌農学校に水産科が設置された時、初代の教授になっているくらいで、この学校のために力をつくしていたのであろう。
「札幌農学校は、準大学の組織で、卒業すれば農学士になれる」というのが、松村にとっての殺し文句となった。その当時北海道と言えば、はるばる遠い蝦夷地であり、熊の住む未開の原野で、まるで外国のようなところ、というイメージがあった。
しかし、その一方で、それこそ青雲の志に燃える若者の間には、一種の北海道熱とでもいうべきものがあったことも事実である。16歳の松年は、すぐさま、和田に付いて北海道に渡る決心をしたのであった。
遠い、遠い蝦夷地
北海道に行くと決まったら、ぐずぐずしている暇はない。松年は早速、9月になって札幌に帰る和田の後に付いて行くことにしたが、当時、北海道はまだ、ほとんど江戸時代そのままの「蝦夷地」であって、東京から北海道までは、今では考えられないほど時間がかかった。
日本鉄道の上野─青森間が全通するのが明治24年のことで、その頃の時刻表を見ても、東京から札幌までは、青森から室蘭までの鉄道連絡船も入れて丸々4日間の旅となっている。
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