同じような現象はヨーロッパのキリスト教でも見られ、アルプスの北のオランダ・ドイツで宗教改革の起こった時、アルプスの南のバチカンがどう対抗したかというと、絵画、彫刻、建築、歌と踊りを総合したイメージの力に頼った。
代表はオペラで、美術と建築ならバロック。宗教改革の中で指摘された『聖書』の内容とあまりに違うバチカンの内実や宗教改革勢力の合理性、近代性からすると、イメージの力で果たして対抗できるものかと疑われるが、宗教改革の大波はアルプスを越えられなかったのだから、対抗できたということだろう。
こと建築についていうと、バロック建築の名作のトリノのサンロレンツォ聖堂やカトリックに踏みとどまったドイツのバイエルン州のヴィース教会を訪れて、一歩中に入ると、イメージが官能に働きかけ、キリスト教徒でもないのに気持ちが浮き上がり浄化されたように感じられ、言葉も理論もいらなくなる。相撲に喩えると、体は残っているのに、気持ちは押し出しの負け。
日本もヨーロッパも、建築が記憶の器として言葉と並ぶ表現力を持つ領分として認められてきたというのに、どうして日本に比べ、ヨーロッパの建築と都市はあれほど歴史的な遺産を大切に守って現在にいたるのか。
今の東京に、江戸時代の社寺建築はほとんど残っていないし、町屋にいたってはさんざん探したが一棟も見つからなかった。
やはり煉瓦や石でなく木造建築だったことが大きいし、西洋に起源する近代化の荒波を受け入れる中で、歴史的な蓄積が軽んじられたからだとも思う。
あるいは、国の礎は都市ではなく農村、とされてきた長い歴史もあろう。東国の農村に現れた一所懸命の強者たちの群れが、都を襲って列島を抑え、その構造を保ったまま近代に突入し、なかば今にいたる。
今の日本で建築への関心が増えてきた理由の1つは、文字と言葉が力を減じ、『往生要集』の源信ふうにいうなら、「称名念仏」より「観想念仏」へと移ってきているからではないか。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚が目覚めてしまった。目覚めた感覚群は、大きくかつ動かざる建築へと、さらにより大きな富士山に象徴される印象深い自然景観(絶景)へと向かっている。
藤森照信(Terunobu Fujimori)
1946年生まれ。東京大学建築学専攻博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学建築学部教授等を歴任。専門は建築史学。著書に『建築探偵の冒険・東京篇』(筑摩書房、サントリー学芸賞)、『タンポポ・ハウスのできるまで』(朝日新聞社)、『天下無双の建築学入門』(筑摩書房)、『歴史遺産 日本の洋館』(講談社)など多数。
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