本多哲は、そもそもは本多燕左衛門を名乗った浪曲師だった。仏悪兵衛と名乗ったこともある(図5)。演者時代から新作づくりに熱心で、「恩讐の彼方に」「大菩薩峠」などの浪曲化も手がけた。本格的な「文芸浪曲」の基礎をつくった人物といっていい。二代目天中軒雲月、梅中軒鶯童など多くの浪曲師に演目を提供したが、なかでも寿々木米若は、親交の深い演者のひとりだった(図6・図7・図8)。
例えば『芸一報』に記載された1935年の雑記からは、米若との交流をかいまみることができる。浪曲と映画の関係についてのゴシップが散見されるが、米若をきっかけとしてはじまっていく「浪曲トーキー」が、まさに流行していった時期である。
他にも、米若の巡業の盛況ぶりや、上京して、「母の愛」などをレコード吹込み用の台本に縮めたことが書き留められたりしている。「母の愛」はその半年ほど前に封切られた松竹映画を浪曲化したものだった。本多が興行用に構成していたものを、さらにレコード用台本に再構成した。浪曲作家が浪曲師に伴走する様子が、愛好者向け専門誌に書き留められたのである。
vol.101
毎年春・秋発行絶賛発売中
絶賛発売中