アステイオン

民俗学

庶民のコレクションが貴重な大衆文化のセーフティーネットに──浪曲史の編み直しに向けて

2023年01月04日(水)08時10分
真鍋昌賢(北九州市立大学文学部比較文化学科教授)

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左:図5「大正十三年 東西浪花節真打人気競 子一月改正」(架蔵)。「仏悪兵衛」とは、浪曲師の芸名として一風変わっている。本多の異端児ぶりがうかがえる。中:図6 テイチクレコードポスター(架蔵)。米若がビクターから移籍して、間もない頃のもの。「七年後の佐渡情話」は、爆発的ヒットとなった「佐渡情話」(ビクター)の続編として本多が書き下ろしたとされる。移籍後1作目としての話題性をもたせたかったのだろう。右:図7「赤城の子守唄」台本カバー(架蔵)。米若が所有していたと思われる筆写台本のもの。本多が脚色したことが記されている。撮影:筆者


本多哲は、そもそもは本多燕左衛門を名乗った浪曲師だった。仏悪兵衛と名乗ったこともある(図5)。演者時代から新作づくりに熱心で、「恩讐の彼方に」「大菩薩峠」などの浪曲化も手がけた。本格的な「文芸浪曲」の基礎をつくった人物といっていい。二代目天中軒雲月、梅中軒鶯童など多くの浪曲師に演目を提供したが、なかでも寿々木米若は、親交の深い演者のひとりだった(図6・図7・図8)。

例えば『芸一報』に記載された1935年の雑記からは、米若との交流をかいまみることができる。浪曲と映画の関係についてのゴシップが散見されるが、米若をきっかけとしてはじまっていく「浪曲トーキー」が、まさに流行していった時期である。

他にも、米若の巡業の盛況ぶりや、上京して、「母の愛」などをレコード吹込み用の台本に縮めたことが書き留められたりしている。「母の愛」はその半年ほど前に封切られた松竹映画を浪曲化したものだった。本多が興行用に構成していたものを、さらにレコード用台本に再構成した。浪曲作家が浪曲師に伴走する様子が、愛好者向け専門誌に書き留められたのである。


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図8 「赤城の子守唄」台本(架蔵)最終頁。1935年(昭和10)に書き写したことがわかる。米若は、本多から受け取ったものを改めて自筆で書き写したのだろう。口演しやすいように文言の調整などは随時おこなっていたと考えられる。撮影:筆者

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