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文学

文学は魂の糧──いち早く反戦の声をあげた、リュドミラ・ウリツカヤとその作品

2022年12月28日(水)08時18分
沼野恭子(東京外国語大学教授)

ウリツカヤの畢生の大作が、長編『緑の天幕』(2010年)である。抑圧的なソ連社会において、スターリンが死んだ1953年から亡命詩人ヨシフ・ブロツキーの亡くなった1996年までの40年あまりの間、才能と個性に恵まれた3人の幼なじみがどのような人生をたどったかを綿密に描いた大作で、文学への絶対的な信頼をもとに、自由を求める魂の成長、挫折、蘇生をたどった作品である。

 『緑の天幕
 リュドミラ・ウリツカヤ[著]/前田和泉 [訳]
 新潮社[刊]

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陽気で如才なく商売気もあるイリヤは、長じて禁止されていた前衛絵画を集め、地下出版に携わるようになる。

繊細な詩人の感性をもつ孤児のミーハは、ユダヤ人ゆえの差別を受けながらも聾啞者教育に打ちこもうとするが、発禁小説を読んだことを密告され職場を追われてしまう(ここは作者自身の経験が想起される)。

病弱だが音楽の才能に恵まれたサーニャは、いじめっ子に手を切られ、ピアニストになる夢をあきらめ、やがて音楽学者への道をめざすことになる。

少年3人を生涯の友情で結びつけたのは、「国語」の教師シェンゲリであった。地下文書だったパステルナークの『ドクトル・ジヴァゴ』を読む反体制派のシェンゲリ先生が、ロシア文学への愛を生徒たちに植えつけ、それが生徒たちの血肉となり人間性を形づくったのである。彼は生徒たちにこう語りかける。

「文学は人類が持つ最良の宝です。そして、詩は文学の核心で、世界と人類の中にある最良のものすべてが凝縮されています。それは、魂にとって唯一の糧です」

「文学っていうのは、人間が生き延び、時代と和解するのを助けてくれる唯一のものなんです」

いかにも「文学中心主義」の国ロシアの知識人ならではの熱い言葉だが、抑圧的な時代にあって文学が人間の精神にとっていかに豊かな土壌であったか、いかに重要な役割を担っていたかがうかがわれる。

そして、あたかもそれをテクスト上で体現するかのように、『緑の天幕』にはロシア文学からの引用、言及、暗示がそこかしこにちりばめられ、プーシキン、レールモントフ、クズミン、チェーホフ、ツヴェターエワ、アフマートワ、マンデリシュタームらが綺羅星のごとく連なっている。

ひるがえって日本では「国語」科目から文学の教材が排除される方向にあるという。文学作品を読むとは、他者である登場人物の立場に身を置いて作品世界を生きるということであり、「共感力」を養うのにこれほど効果的な営みはない。

異文化を背負う他者を理解し、多文化が共生できる社会をめざすことを教育の目標とするのであれば、文学を国語に組み込まないカリキュラムなどありえないのではないか。

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