アステイオン

演劇

娼婦とクズ男の物語──映画史研究者の『女性祭』読解

2022年11月30日(水)08時11分
小川佐和子(北海道大学文学研究院准教授)

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『秋津温泉』の舞台となった岡山の奥津峡 撮影:小川佐和子

刺激と反応だけの身体的なやりとりで生まれる、成熟さを目指さない男女関係。そのような脆い欲望に駆られたキャラクターの空虚さと大東の身体の軽さが合っていたのだ。

彼のクズ男の身体性はテレビの画面のみならず、実際の舞台上でも際立つ。大東演じる栗山の、中身が空っぽな軽さと、戦時中に受けた負傷がもとで片足を引きずっている実物の重み。そのギャップにわたしは惹きつけられた。

ダメンズの耐えられない軽さ

大東駿介の系譜をたどってみると五社英雄監督の『女殺油地獄』(1992年)でクズ男を演じた堤真一の底の浅い身体性に行きつく。二人は体型や顔の造形も似ているからだ。本作は堤の長編映画デビュー作であり、これ以後もっぱら爽やかな二枚目役が多くなってしまったことは惜しまれる。

堤が演じるのは大阪天満町の油屋の次男坊・与兵衛である。彼は恩人の娘を手籠めにし、乳母代わりの人妻お吉とも情を交わしたあげく凄惨に殺すという、これまた折り紙つきのクズ男だ。

与兵衛は、近松門左衛門の原作のように単に金品目当てだったのか、映画のように女の情念の重みから解放されたかったのか。彼の殺人の動機はよく分からない。あるいは動機がない、ただ瞬間の欲望に流されるだけの愚かさが、茫漠とした堤のまなざしに見出される。ラストシーンで堤の身体は油にまみれて虚しくも重々しく這いつくばることになる。ここにも軽さと重さのギャップがある。

『女殺油地獄』ではもう一人の注目すべき役者、長門裕之が出演している。長門裕之といえば、わたしがもっとも好むのは『秋津温泉』(1962年)で演じた理想的なダメ男である。クズ男とダメ男は似て非なるものだが、クズ男は支柱や重力がなく、魅力がないものとして描かれ、その最低の人間性で他者を狡猾に利用するだけである。

一方でダメ男は、女性に不実であることに変わりはないが、人たらしのような引力があり、その物欲しげな表情で抗し難い色気を発する。彼を取り巻く女性やまわりの人間たち、そして観るわたしたち自身もダメ男のキャラクターにさまざまな意味や解釈を加えていくために、彼らは総じて重くなっていく。

『秋津温泉』の舞台となった岡山の奥津峡で、長門裕之が岡田茉莉子演じる自死したヒロインの体を持ち運ぶ美しいシーンがある。その重さの感覚は、先の堤のラストシーンにおける無意味さの充満とは正反対だ。

そして私もその重さを体感すべく、岡山大学で担当した夏期集中講義のついでに奥津峡をめぐって歩いたことがある。映画と現実の区別がつかなくなる、恐ろしくも至福のひとときだ。

『夜の女たち』の観劇をきっかけに、堕落する女性とそんな運命に追いやったクズ男とダメ男の系譜をやや節操なく数珠つなぎにさかのぼってみた。本格的なダメンズ表象研究をするには課題が山積である。なぜ人は絶望の物語を好むのか、なぜわたしたちはクズ男やダメ男に惹かれるのか、明確な答えはまだ出ない。


小川佐和子(Sawako Ogawa)
山梨県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。京都大学人文科学研究所助教を経て、現職。専門は映画史・オペレッタ文化史。著書に『映画の胎動:1910年代の比較映画史』(人文書院、2016年)。「ジャズ・オペレッタからナチ・オペレッタへ:1920-40年代の大衆喜歌劇における風刺表現と演出の変遷」にて、サントリー文化財団2017年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」に採択。

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