ドニプロ川の右岸にある「祖国記念碑」 Aleksandr Mokshyn-iStock
ウクライナの首都キーウで2015年春から1年半ばかりだが生活するなかで、しばしば感じることがあった。はたしてこの国は戦時下なのか、それとも平時なのかということである。
渡航前、私は、前年に起こった「尊厳の革命(マイダン革命)」や東部ドンバスでの激戦から、国全体が陰鬱な雰囲気に包まれているのではないかと想像していたが、暮らし始めると街は思ったよりも落ち着いており、見た目には「日常」の明るさを取り戻していた。
もちろん革命や紛争の犠牲者を追悼する記念碑や、軍の兵士募集広告を見るたびに、戦時下にあるという現実に引き戻された。
専門家などが集まる会合に出れば、いかに被占領地を取り戻すか、いかに国際社会の「ウクライナ疲れ」を克服するか、EUやNATO加盟に向けた改革をいかに行うべきかなどが議論され、この国の置かれた厳しい現状を目の当たりにした。
国際社会の関心が薄れていくなかでも、ウクライナにとって「侵略者」ロシアとの戦争は続いていた。クリミアではロシアによる実効支配が強化され、東部では、2015年2月に停戦と和平の道筋を定めた「ミンスク合意」が締結されてからも停戦破りが繰り返された。2022年はじめまでに約1万4000人の命が奪われ、多くの人々が故郷を追われた。
それでもキーウは平穏で、極寒の日を除けば夜、飲み歩くことにも不安はなかった。長引く戦争で市民生活にも影響はあると聞いたが、市場は季節の野菜や果物などで溢れかえり、いつも賑わいをみせていた。
ドニプロ川のビーチで束の間の夏を楽しむ人々、オペラで長い冬を楽しむ人々の姿からは、この国の一部とはいえ戦闘が続いているという現実を想起することは難しかった。これは、数日ながらも滞在した北部のチェルニヒウ、西部のリビィウやザカルパッチャ、そして南部のオデーサでも感じたことである。
ウクライナの人々にとっても、時が経つにつれ、手詰まり感がある東部の状況はどこか遠くの出来事になっていないか。そう思わずにはいられなかった。
実際、世論調査でも、「国家にとって最も重要な課題(3つ選択可)」として東部紛争を挙げた人の割合は、2014年9月の73%から徐々に落ち始め、2021年11月には20%にまで低下した。失業率、インフレ、ガス代などのコスト増といった日々の生活に直結する問題、そしてなによりも悪名高き汚職のほうが、多くの人にとってより深刻な問題だった。
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