停戦しても被占領地が残れば、住民の尊厳や自由、そして命が奪われる危険性がある。武器を置いても攻撃がやむとは限らず、占領下で非人道的行為がとまる保証はない。「かりそめの停戦」では意味がないということを、人々は経験的に理解している。
だからこそ、ゼレンシキー政権は戦後も見据えて、より確かな安全の保証を同時に求めている。
停戦協議の行方は往々にして戦場での現状が反映されるため不確実である。今後、「2月24日」ラインまで戻るかもしれないし、ウクライナの反転攻勢が失敗に終わり、ロシア軍にさらに押し込まれるかもしれない。
あるいはその他の戦線で膠着状態になるかもしれないし、ロシア軍が完全撤退するかもしれない。どのような形で戦争が終わるにせよ、明日攻撃が再開されては意味がない。
現状、中立化の宣言という妥協をしてでも平和を実現すべきという声も小さく、むしろNATO加盟支持率は戦争開始後、急上昇している(6月の調査では過去最高の76%)。なにより興味深いのが、伝統的にNATOへの反感が強い東部や南部でも支持が多数に転じたことである。
プーチンはウクライナのNATO加盟を「レッドライン」としてきたが、皮肉なことに彼の行動は、ウクライナの人々をNATOに向かわせている。
とはいえ、以前から加盟プロセスは全く進展しておらず、これからもNATO側に受け入れ準備がない限り、ゼレンシキーが戦争直前に述べたように、それは夢物語で終わるかもしれない。今後、願っても加盟できない現実に人々が幻滅し、その熱が冷めていく可能性もあるし、どこかで加盟希求の旗を降ろさざるをえないかもしれない。
どのような方針をとるにせよ、戦争終結過程で確実に浮上するのが、戦後ロシアが再び攻撃できないようにするにはどうすべきかという問題である。
ウクライナでは、1994年の「ブダペスト覚書」に裏切られたという感覚が強く、「旧ソ連の核兵器を放棄しなければ侵略はなかったはず」という見解もあるが、だからといって核武装論は非現実的で盛り上がりを見せていない。
そのなかでNATO加盟も現実的でないとすれば、ブダペストの過ちを繰り返さないために、より実効性と法的拘束力のある安全保障の枠組みを追求する他ない。
問題は、ウクライナを支える米国をはじめとする関係諸国がどこまでのコミットメントを与える覚悟があるかだが、これは、戦後ロシアをどう位置づけるかという問題にもつながり、一筋縄ではいかない。
それでもこの課題をどう克服するかは、今後、ヨーロッパが長期的に安定を取り戻せるか、そしてなによりも尊厳と自由のために闘い続けるウクライナの人々が真に穏やかな日常を取り戻せるかの試金石となるだろう。
合六強(Tsuyoshi Goroku)
1984年生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。パリ政治学院留学。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。専門は米欧関係史、ヨーロッパ安全保障。共著に『新たなミサイル軍拡競争と日本の防衛』(並木書房)、『防衛外交とは何か』(勁草書房)など。2015~16年にウクライナ・キーウ滞在。
「アステイオン」97号
特集「ウクライナ戦争──世界の視点から」
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