池内氏の回答はこうである。過去30年を経て、大学改革は、英語、査読付き、引用数多、即ち影響力を持つことを推奨するといういまの傾向へと帰結した。そこでは、世界で適用可能な普遍性をもつもの、あるいは経験則に反する奇抜な内容が評価される。こうした専門的業績ばかり求めるひとは、これから『アステイオン』のような一般誌には書きたがらなくなるだろう。しかし、これがもう30年続いたらどうなるか。この傾向が辿り着く先は、特定の国家の政治にとって意味がない論考ばかりが書かれ、それを国が税金で支える根拠が見出されなくなるという状況である。業績にのみ価値を見出していると、結果、自らが苦境に立たされるようになるわけだ。こういうときに、一般向けに書いていると、それを読んだ親から家庭教師の依頼がくる。そこで必要なのは家庭で使われる母語である。一般向けに書くことの実利性がここにおいて改めて見直される。遠回りして30年後に、身近な人との当然のコミュニケーションの重要性という当たり前のことに気づくことになるだろう。
まとめにかえて
学問と大学の現状を、未来を占うという方便を使って分析したこのイベントは、結果として大学(学問)と現在の社会の結びつきを捉え直す試みとなっていたように思う。その捉え直しは、社会に育まれた研究がその成果をいかに還元するかという方法の問題へと、即ち、英語か自国語か、術語か通俗語か、それぞれの利点と弊害を考えることへと、落とし込まれていた。
池内氏の論ずる、あらゆる側面での区分の喪失は、不可避の未来なのかもしれない。それでも、大学がこれからも現実世界の批評装置としての役割を変えないならば、大学人は自らの営為の固有性を主張する存在であり続けるだろう。既存の区分をご破算にするのも大学なら、それを再統合するのも大学であったはずだ。
会場で64本の論考のなかでのおススメを尋ねられた際、待鳥氏は論考(論者)を三つのタイプに分けた。①自分の専門をベースにまじめに語るもの、②面白可笑しく化けて語るもの、③ギブアップしてしまうもの(これはそもそもほぼ載っていない)である。そのうえで、待鳥氏は、②では化け方の上手かった五百旗頭薫氏の昆虫譚を、①では「立派」な態度として土居丈朗氏の財政破綻への警鐘を挙げた。池内氏は、皆が書きあぐねる中真っ先に真っ直ぐに提出されたという事実の深みを以て、特集巻頭を飾る、皇室安寧を書いた君塚直隆氏の論考を挙げた。なお、論考の順番は提出順だそうで、池内氏が最後なのは、その苦悩を物語っているとのこと。
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