待鳥氏の特集論考「それでも民主主義は「ほどよい」制度だろう」は、政策決定の場面で、ビッグデータを処理して民主的正当性を伴った「最善」解を導くAIが発明されようとも、不完全ながらも随時それを人間の手で修正することができる代議制民主主義は存続すると論じている。加えてこの場にて、織田信長やナポレオンといった天才的政治家の判断の背後には、紹介されることなく埋もれた数々の失敗例がある、とも語った。人間には到達不能のビッグデータというブラックボックスのなかでくだされ、遡った検証が不可能となるAIの判断に頼っていては、問題が起こったときに対処しようがなく、決定的な破綻を招きかねない。失敗も想定して織り込み、修正可能な段階が存在する体制はやはり必要だ、という見解である。さらには、政治においては、100の内99までは合理的に進めても、最後の1で例外的で不合理な判断が挟まれることがある。それが上記の天才たちの持った力でもあった。これも、AIには持ち得ない代議制民主主義の力である。
話題は、学問と大学の未来へと移された。「30年後ならまだしも」と書く論者が多い特集であったが、では、その比較的予測しやすい30年後と、かなり不確実で論者たちにとって難敵となった100年後に「学問と大学」は、どうなっているか。
池内氏は、今から30年前に行なわれた1990年代の大学院重点化は、それまでの一子相伝的な大学運営を変えたとみる。大学院とそこで学ぶ者を増やして競争原理を導入した。その帰結として現在、ポスドク人材が溢れたが、一方で人口減に伴う経済規模の縮小がある。それに対応させるべく、人員削減と有期雇用が溢れる現状が生まれた。これからの30年で、それが行きつくところまで行く。恒常性が薄れて人とお金が足りない大学へ、企業の寄付も見込めなくなる。辿り着くのは、相続税対策などの実利を伴う個人の寄付である。大学はこのとき、「あなたが個人として残したいものは何か」と問い、それを大学に託さないか、というかたちで寄付を募ることになるだろう。窮乏化の果てに大学は、有限な人間が何を残すかを問いかける「本当の場」になっているかもしれない。
100年後については、特集論考で記している通り、心とか理性とかといったものが個人に存するという近代固有の考え方が通用しなくなり、それらが個人から切り離される状態が生じている筈である。それは古代において哲学や宗教が理性を人間一人一人を超えたところにあると捉えていたことと重なる。人間は、コンテンツを自分の外に置き、広大な砂場でシャベルひとつを手に持つような存在となるだろう。以上池内氏による見解である。
vol.100
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