アステイオン

未来

想像の未来とその向こうの今

2020年05月29日(金)16時22分
堀江秀史(東京大学大学院総合文化研究科助教・2016年度、2017年度鳥井フェロー)

30年後のような線形的な予測が立てられない故に、100年後の予測は難しい、と待鳥氏は語る。100年の間には、例えば100年前と現在には戦争が横たわっているように、必ずや断絶や飛躍がある筈だからだ。待鳥氏は、この困難な予測に先だって、大学の100年前を振り返る。すると、100年前は、日本で帝国大学の数が増え、私立大学も認可されたころだったと分かる。これらの近代的な大学は、国民国家の理念を根底に、研究と教育を一体化させたものである。即ち国という単位を前提に成立したのが現在に続く大学なわけだいている。その大学はいま、英語の業績を伸ばすことを奨励され、結果として人材の海外流出を招いている。興味深いのは、国がこれを国力の強化の方策と位置付けていることだ。日本語での教育や研究を行なってきた国民国家のツールとしての大学において、「グローバル化」を推進すれば、国という縛りは緩くなり、国民国家の解体へと繋がる。こうした実情と反対に、国がそれを「国際化」によって国力増強に繋がると位置付けているのは奇妙である。これは30年後や100年後に影響を及ぼすだろう、と指摘した。

池内氏はこれを受けて、100年後、国民国家の教育システムとしての大学入試が意味を成さなくなったとき、一人一人を国がきちんと教育するのではなく、権力をもった個人が実子を哲人政治家として養成する制度、即ち家庭教師の時代がくると、大胆に予想する。一般に、いまあるものが、たとえ30年後の段階で成功と見なされても、60年後には失敗になるということがある。こういうとき世は、正反対の方向に振れる。大学に話を絞ると、もう30年もすると、国民国家のシステムとしての大学はもたなくなる。そうした大学の反対の方向にあるのが家庭教師であり、大学人は、権力者や金持ちの家庭教師として、自らの活路を見出すのではないか、と述べた。

大学人が一般向けに書くことの意義

イベントの最後に、『アステイオン』は書店にも並ぶ一般向けの論壇誌であり、学会誌とは性質を異にする。専門家コミュニティへではなく、一般に向けられた媒体に書くことの意義をどう捉えているかとの問いがあった。

これに待鳥氏は次のように応じた。特に生活の根拠地が物理的に定まっているうちは、国民国家の言語的な紐帯は大切である。現在アメリカに見られるような分断の構図が日本でも深刻化することがないように、一般の人に学術的な知見を開く媒体が必要である。あるいは、政治学は特に、社会の成員たちが何を疑問に思っているのかを意識すべきで、国民国家の結びつきが弱くなりつつある今だからこそ、なお意識的に、日本の社会において日本語で一般の人々のために学問の知を開いていく必要があるのではないか。

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