井上氏の報告に続いて、質疑応答が行われた。まず問われたのは、東京中心の歴史学がもたらした〈負の遺産〉についてである。「信長と秀吉の時代を “安土桃山時代” というが、秀吉の拠点は大阪だったのだから歴史学者の脇田修がいうように “安土大阪時代” とすべきではないか」「飛鳥時代、奈良時代は難波宮の時期も長かったが、なぜ難波は時代名称から省かれているのか」。この問いに対して井上氏は、東京で歴史教育を設計した人たちに「 “大阪時代” だけは勘弁して欲しい」という思いがあったのではないかと推測する。弥生時代も飛鳥時代も地名に由来する時代名称なのに、その間の時代は古墳時代と呼ばれる。立派な前方後円墳がある南大阪にちなんだ「河内時代」や「大阪時代」という名称は周到に避けられたのである。大化改新の詔が難波長柄豊碕宮で発せられた事実もほぼ忘却されている。
そもそも弥生時代という名称は、東京帝国大学の所在地もしくはその近所である本郷区の弥生で出土した土器に由来する。だがこの種の土器は、すでに江戸時代に岡山で発見されていた。井上氏は、本来は「岡山式土器」とすべきなのに、東大に近いという理由で弥生式土器になったことを指摘する。やはり、歴史を作るのは東大なのである。
このほか、禅宗・浄土真宗などの鎌倉新仏教ではなく天台・真言を重視する黒田俊雄の顕密体制論、東北や九州から見た「関東史観」と「上方史観」の対立、出身学派や出身ゼミの拘束力、自然科学における学派ごとの流儀の違い、イギリスから、さらには世界的視座から見たアメリカ独立、ヨーロッパ史研究の概念で日本史を見るバイアスの問題など、話題は多岐にわたった。
もともと東北出身である筆者はどこでも田舎者として憐れまれる存在なので、東大系の東国国家論、天皇を中心とする公家政権の下に武家勢力と寺社勢力の相互補完関係を見る京大系の権門体制論のいずれにも皮膚感覚レベルの共感を抱くことはできない。だが、自分が関係する日本政治思想史という学問分野に対する強い反省を促された。
vol.100
毎年春・秋発行絶賛発売中
絶賛発売中