井上氏が「関東史観」のおかしさに気がついたのは、京都大学に入学し、上横手雅敬氏の日本史講義を聴いた頃のことである。武家をうやうやしい存在として描く歴史叙述とは異なり、上横手氏は鎌倉幕府を「広域暴力団関東北条組」と呼んだ。井上氏はここで、全国の歴史教育に支配的影響力を持つ官学中の官学、東京大学を源流とする「関東史観」とは異なる歴史観に出会ったのである。
学問風土の「関西らしさ」は、京都大学で学んだ歴史学者による日本中世史研究に端的にあらわれている。井上氏は東大的な研究と京大的な研究を対比させながら、そのことをコミカルに論じていく。最初の例は、中央公論社のシリーズ『日本の歴史』が内包する二つの異なる歴史観である。シリーズの第7巻『鎌倉幕府』は東大の石井進によって、第8巻『蒙古襲来』は京大で学んだ黒田俊雄によって書かれた。井上氏は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を目指して挙兵し、大敗した承久の乱(1221)についての叙述の違いに注目する。石井が東国の西国に対する勝利、朝幕の力関係の逆転としてこの乱を描くのに対し、黒田は東国の優位をあくまで政治面に局限して、社会面・経済面・文化面では近代まで西国が優越していたことを強調する。東国的な御家人支配は野蛮で暴力的であり、多くの人がそれに反感を持ち貴族や社寺による支配を選んだ。東国は「経済発展の後進地帯」で、荘園制社会における京都などへの物資の移動・集積・交換がのちの時代の商業につながっていく。
「上方びいき」を自認する井上氏は、黒田の歴史叙述にあらわれた「上方史観」への賛意を隠さない。承久の乱後、鎌倉幕府は皇位継承を左右する巨大な力を持つようになったという石井の指摘に対しても、その程度のことは藤原摂関家でもやっていたとそっけない。
次に井上氏が例示したのは、源頼朝が長女の大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたという『愚管抄』の記述の解釈をめぐる問題である。ここでも「関東史観」と「上方史観」は対立する。「上方史観」による解釈は明瞭で、奥州征伐後の頼朝は王朝国家に従順な侍大将に変貌しており、天皇の権威に依拠するために娘を入内させようとしたと捉える。頼朝にとって、鎌倉幕府はあくまで京都の公家政権より下の存在だったというのである。一方、「関東史観」における頼朝は東国独立国家を目指した人物であるから、入内問題の解釈は微妙になる。『愚管抄』の記述を捏造だとする説、中央貴族の末裔の限界を見る説、後鳥羽と大姫の間に生まれた皇子を東国独立の象徴にしようとした説などがある。井上氏が東大の佐藤進一らによって提唱された東国国家論に否定的であることはいうまでもない。東大史料編纂所の本郷恵子氏が2010年に著した『将軍権力の発見』(講談社選書メチエ)には、頼朝は「旧来の朝廷の枠組みに近づくことをめざしていたふしがある」という記述があることを示し、ようやく東京の学者も「上方史観」に理解を示すようになったと説いた。
vol.101
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