ドイツ語で教養をBildungという。カントの三批判書の訳では「構想力」と訳されている、「形を作る」という意味の言葉だ。教養というと知識の量が話題になることが多いが、構想力のことを教養というんだ、と思うと、教養を考えるときに心が広くなるし、リベラルアーツとイマジネーションを重ねることができて面白い。
最後にもうひとつ、世界を立体的に見るためには、他の文化的なバックグラウンドをもった、他者の視点を自分のまなざしに引き入れることも大事になる。
これを、アドヴォカシーadvocacyとメディエーションmediationという言葉で考えてみよう。アドヴォカシーはもともと法律顧問を呼ぶという弁護士用語から派生し、自分でどういう状態にあるのかを自分で表現できない人の代弁をする、アドヴォケイトする能力のことを指す。メディエーションは、異なる声に耳を傾けてそれをメディエイトする、つなげていくという作業だ。そのセンスを《水平の教養》と呼ぶことができるのではないかと考えている。
***
質疑応答ではまず、この話は政治思想においても言えることではないか、という見解が示された。また、教養と想像力というテーマについて、仮に教養をintellectualと考えると、今の英語ではintelligenceというのは諜報などの意味に使われることもあるけれど、もともとはinter-legere、行間を読むという意味を持っていた。ここで重要になるのが想像力であり、奥や下のものを深く読んでいく力ではないかという指摘がなされた。
そして、《水平の教養》に必要なセンスは育てることができるのか、という質問がなされ、これに対し鷲田先生は「場数を踏むこと」「人と人をつなげるような安心感のある場所を作ること」の重要性を語られた。
さらに、現代の科学において専門の分化が進むなかで「なにを問うべきか」がわかりづらくなってきているために、《水平の教養》を考えるうえでも三木清のような「垂直的」な、哲学的な問いを今一度求めることも必要になってくるのではないかという質問がなされた。
これに対し先生は、depthというのはそのためにあるような言葉で、水平にただ広がるのみではない「深み」のことである。哲学の世界では「アルキメデスの点」のように天地をひっくり返すような命題が定期的に出ていたが、20世紀後半以降の哲学にはそれがなくなってしまった。究極の岩盤が存在せず、底抜けになっている。科学も同じで、底がなく、垂直の「奥」そのものが求められなくなっている、そのような状況のなかで必要になってくるのが水平方向の「深み」ではないか、とお答えになった。
vol.101
毎年春・秋発行絶賛発売中
絶賛発売中