コラム

面白研究に下ネタ 科学の裾野を広げる「イグ・ノーベル賞」の奥深さ

2021年09月28日(火)11時30分

2011年は、滋賀医科大学や医療ベンチャー企業が「火災などの緊急時に眠っている人を起こすのに適切な空気中のわさびの濃度を発見し、わさび警報装置を開発した」ことに、化学賞が与えられました。わさびで眠っている人を起こすと聞くと「TVのドッキリ企画で使うのか?」などと考えたくなりますが、「非常ベルが聞こえない聴覚障害者に危険を知らせるために考えた技術」と知れば「実用性の高い研究だ」と腑に落ちます。

冒頭で紹介した「猫は液体」も、力が加えられた状態で材料がどのように流動し変形するかを研究する「流動学」の専門家が、従来の固体・液体の定義に疑問を投げかけたことが本質です。難しい数式ではなく「猫は液体」の言葉のインパクトで、一般の人々にも定義の問題点を分かりやすく説明したことが評価されたのです。

疑似科学や下ネタに賞を与える意味を考える

イグ・ノーベル賞は、疑似科学に風刺の効いたコメントとともに賞を与えたり、性的な現象や排泄物を扱った研究に面白おかしく理由をつけて受賞させたりすることもあります。そのため、「悪ふざけが過ぎて、まともな研究を不当に貶めるおそれがある」という批判は常にあります。

イギリス政府の主席科学顧問であるロバート・メイ氏は1995年、「市民が科学研究に対して間違ったイメージを持ち、真剣な研究を笑いものにする恐れがある」と主張し、イグ・ノーベル賞の運営者に対して、今後、イギリス人研究者には賞を贈らないように要請しました。もっとも、この主張に対してイギリスの科学者の多くは反発しました。ある研究者は「どんな形であれ、自分の研究が評価され、世間に知られるきっかけを奪わないでほしい」と反論しました。

1991年と98年に化学賞を受賞したジャック・バンヴェニスト氏は「水は知性を持つ液体で、現在、1分子も抗体が溶けていないほど希釈しても、かつてたくさん抗体が溶けていた記憶を残していて抗原抗体反応を起こす」「水は以前溶けていた物質の情報を電磁波として放出するので、インターネットを介して情報を送ることができる」と論文で主張したことが評価されました。

科学の実験は、「再現性」が求められます。つまり、正しい主張であれば、同じ実験を誰がやっても基本的に同じ結果が得られるはずです。バンヴェニスト氏の主張は、イグ・ノーベル賞受賞前に多くの科学者によって「再現性がない」ことが示されていました。もちろん、賞の運営側もその事実は知っており、疑似科学を主張するバンヴェニスト氏と、論文掲載を許した科学誌に対する皮肉を込めて賞を与えました。

もっとも、一般の人がこの受賞が面白いと分かるには、「科学リテラシー(科学を理解する基礎能力、科学情報の取捨選択能力)」が必要です。バンヴェニスト氏の受賞は、ニュースで知る私たちにも「科学とは何か」を考える機会を与えたのです。

プロフィール

茜 灯里

作家・科学ジャーナリスト/博士(理学)・獣医師。東京生まれ。東京大学理学部地球惑星物理学科、同農学部獣医学専修卒業、東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了。朝日新聞記者、大学教員などを経て第 24 回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞。小説に『馬疫』(2021 年、光文社)、ノンフィクションに『地球にじいろ図鑑』(2023年、化学同人)がある。分担執筆に『ニュートリノ』(2003 年、東京大学出版会)、『科学ジャーナリストの手法』(2007 年、化学同人)など。

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