最新記事

アメリカ

医療保険改革をめぐる5つのウソ

オバマの医療保険改革案に対する賛成派と反対派の議論がヒートアップしているが、その中にはとんでもない事実誤認もある

2009年8月21日(金)18時01分
アニー・ラウリー、マイケル・ウィルカーソン

医療保険改革について議論するタウンホールミーティングには賛成派、反対派の市民が集まった(11日、カリフォルニア州) Danny Moloshok-Reuters

 この夏、アメリカ連邦議会ではクリントン政権以来となる本格的な医療保険改革が議論されている。これに伴って世論も沸騰し、政府が国民の生死を決める「デス・パネル(死の審査会)」になるという批判から、アメリカ独自の医療制度の強さが失われるといった慎重論まで、様々な主張が繰り広げられている。

 しかしその議論の過程で、特に外国の医療保険に関してかなり間違った言説がまかり通っている。それは同盟国のイギリスやカナダをはじめとした、世界最高レベルの医療保険制度に関しても例外ではない。

「ホーキング博士は治療を受けられない」

ウソ 筋萎縮症を患っている理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士や、脳腫瘍にかかったエドワード・ケネディ米上院議員は、政府が医療制度を運営するイギリスでは治療を受けられない。

ウソつき ビジネス情報紙「インベスターズ・ビジネス・デイリー」は7月31日付けの社説で、「ホーキング博士のような人はイギリスでは生きられない。国民保健サービス(NHS)は身体障害のあるこの賢人の命に価値はないと判断するだろう」と主張した。

 上院財政委員会の共和党トップ、チャールズ・グラスリー上院議員は地元アイオワ州のラジオ局とのインタビューで今月5日、「脳腫瘍があるケネディ上院議員は、イギリスでは治療を受けられない。77歳になったら価値がなくなると見なされるからだ」と発言した。

真相 両方ともデタラメ。

 ホーキング博士はイギリスの病院で集中治療を受けており、英ガーディアン紙に対して「とても高度な治療を受けている。NHSがなかったら私は生き残れなかった」と語っている。

 ケネディのケースでは、確かにイギリスでは治療や薬物投与の費用対効果を評価してから治療するかどうかを決める。そしてNHSは、症状や治療費、治療後の健康状態などを考慮して治療や薬物投与を行わないこともある。しかしイギリスの医師やNHS関係者によれば、ケネディのケースだと年齢に関係なく手術や放射線治療、化学治療といった高度な処置を受けられるという。

 治療が妥当かどうか判断する英国国立臨床研究所(NICE)の理事長はガーディアン紙に対し、ケネディがNHSで治療を拒否されるという話は「間違っているし、我々がこれまで推奨してきた医療からは考えられない」と語っている

「カナダ人は緊急手術のためにアメリカに来る」

 ウソ 政府が運営する医療制度が貧弱なため、カナダの患者は金を払ってアメリカに緊急手術を受けにくる。

 ウソつき 民間患者団体「ペイシェンツ・ユナイテッド・ナウ」は、カナダ・オンタリオ州住民のショナ・ホームズが登場するテレビ広告を放映。ホームズは「私は脳腫瘍を乗り越えた。しかしカナダの公的医療を受けていたら死んでいただろう」と語っている。彼女はアメリカに救命手術を受けに来たのだという。

 今年6月、共和党のミッチ・マコンネル上院院内総務は「心臓バイパスの手術を受けるのに、オンタリオ州では半年も待たなければならないこともある。アメリカだったらすぐできる」と言った

 真相 ホームズは確かに、世界最高の病院の1つと言われるミネソタ州のマイヨー・クリニックで10万ドルを支払って治療を受けた。しかし病院のサイトによればホームズがかかったのは脳腫瘍ではなく生命にかかわらない良性の腫瘍だった(この病院は非営利団体で、医療保険改革を支持している)。

 一般的にカナダ人はアメリカに医療を求めない。カナダのシンクタンク、フレイザー・インスティトゥートによると、カナダとアメリカの政府はどちらもGDP(国内総生産)の7%を医療費につぎ込んでいる(アメリカの場合、民間支出を足すとGDPの16%になる)。

 しかしカナダでは国民がすべての医療費と処方される薬の費用の一部を賄われている。一方のアメリカでは4700万人が無保険のままで、毎年数十万人が医療費を払えずに自己破産している。

 カナダでは治療を待たされることはあるが、緊急手術を待たされることはない。マコンネルの心臓バイパスの話は間違っている。カナダの医療当局によれば、07年にオンタリオ州で緊急でないバイパス手術を選択した患者が約61日間待たされたケースはあった。こうしたまともなデータはアメリカでは公表されていない

「欧州の医療制度は公営だから機能している」

ウソ ヨーロッパ諸国は長らく公営医療制度を続けてきた。だからこそ医療が機能している。

ウソつき 民主党のハワード・ディーン元全国委員長は最近、「ヨーロッパ諸国が公営医療制度を維持しているのは、第二次世界大戦で実質的に医療制度が崩壊したのがきっかけだった。一度この方法にしたら、気に入って後からやめられなくなった」と発言した。

真相 あまりに一般化しすぎ。

 ヨーロッパには様々な医療制度と医療保険システムがある。すべてのヨーロッパ諸国が公営医療制度をもっているわけではない。カナダやフランス、ドイツでは医師や病院は民間だ(イギリスのNHSやアメリカの復員軍人援護制度では、政府が医師に給料を支払い病院を運営している)。

 ヨーロッパ諸国は戦後、一様に医療制度改革を行ったのではなく、各国がそれぞれ機能的な制度を模索してきた。例えばスイスは94年、オランダは06年にアメリカが現在検討している制度──病院や医師、保険機関は民間として残しつつ、政府が制度を高度に管理し、医療保険は義務化して政府が財政支援する方式──に移行した。


「カナダとイギリスの患者に治療選択権はない」

ウソ カナダとイギリスでは、個人が医療を選ぶ権利が失われている

ウソつき 保守系政治団体クラブ・フォー・グロース、共和党全国委員会(RNC)

真相 RNCクラブ・フォー・グロースは、カナダやイギリスのように政府が健康保険制度を支配することで、医師と患者の間に「官僚主義」が入り込むと警告している。

 クラブ・フォー・グロースの広告は不吉な口調で次のように主張する。「2万2750ドル。イギリスの政府高官は6カ月の命の値段をそう決めた。彼らの社会主義的システムの下では、医療費が高くつけばつくほどあなたは不運だった、ということになる」

 これは事実と異なる。カナダやイギリスの患者は自分で治療方法や医師を選択することができる。

 イギリスでは、2万2750ドルという数字は「6カ月の命の値段」ではなく、1つの薬では効果がないとNICEが判断する基準の上限だ。だが例外はあって、イギリス人は民間の保険会社に入る選択肢もある(アメリカのように支払い能力によって変わるが)。アメリカでは、医療保険は高額な医療費を避けるためにあるが、医学的知識が限られているため、患者はもっとも高価な選択肢が最良の治療だと考えがちだ。

 NICEの代表はガーディアン紙に対して、この広告は「限られた財源をどう理性的に分配するかという問題に対する、ひどく間違った解釈だ」と語った。

「アメリカの医療制度は世界最高だ」

ウソ アメリカの医療制度が世界でもっともすばらしい。

ウソつき 多くの歴代大統領、政治家、ジャーナリスト、評論家、そして一般のアメリカ市民

真相 アメリカの医療保険制度には他の国と大きな違いがある。それはコストだ。アメリカは総額でも、GDP比でも、1人あたりの金額でも、世界中のどの国よりも多くの医療費を使っている。

 いろいろな測定基準で見ても、アメリカの健康保険制度が世界的にも優れているという主張は間違っている。アメリカは世界保健機関(WHO)や、非営利団体コモンウェルス・ファンドのランキングで1位ではない。適用範囲、利用方法、患者保護、効率性、費用対効果のどれをとってもアメリカの医療制度は最良とは言えない。癌、心臓病、糖尿病といった疾患別でも年齢別でも、平均余命、慢性疾患率や肥満率といったデータでもよい結果を出していない。

 ではどこの国がトップにくるのか? 大抵の場合はフランス、スイス、イギリス、カナダ、そして日本だ。WHOのランキングでアメリカは38位に位置している。

Reprinted with permission from www.ForeignPolicy.com, [Aug. 2009]. © [2009] by Washingtonpost.Newsweek Interactive, LLC.

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

NATO事務総長、国防費のGDP比2%目標引き上げ

ワールド

イスラエル、ヨルダン川西岸空爆 ハマス戦闘員2人死

ワールド

トランプ氏、軍の多様性政策撤廃へ近く大統領令=国防

ワールド

トランプ政権との直接接触、まだ始まらず─ロシア外務
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプ革命
特集:トランプ革命
2025年2月 4日号(1/28発売)

大統領令で前政権の政策を次々覆すトランプの「常識の革命」で世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    緑茶が「脳の健康」を守る可能性【最新研究】
  • 2
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果が異なる【最新研究】
  • 3
    血まみれで倒れ伏す北朝鮮兵...「9時間に及ぶ激闘」で記録された「生々しい攻防」の様子をウクライナ特殊作戦軍が公開
  • 4
    フジテレビ局員の「公益通報」だったのか...スポーツ…
  • 5
    オーストラリアの砂浜に「謎の球体」が大量に流れ着…
  • 6
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のア…
  • 7
    不動産危機・中国の次のリスクはZ世代の節約志向...…
  • 8
    関税合戦が始まった...移民送還を拒否したコロンビア…
  • 9
    「1日101人とただで行為」動画で大騒動の女性、アメ…
  • 10
    ロシアの学校は「軍事訓練場」に...戦争長期化で進む…
  • 1
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のアドバイス【最新研究・続報】
  • 2
    戦場に「杖をつく兵士」を送り込むロシア軍...負傷兵を「いとも簡単に」爆撃する残虐映像をウクライナが公開
  • 3
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果が異なる【最新研究】
  • 4
    日鉄「逆転勝利」のチャンスはここにあり――アメリカ…
  • 5
    煩雑で高額で遅延だらけのイギリス列車に見切り...鉄…
  • 6
    いま金の価格が上がり続ける不思議
  • 7
    被害の全容が見通せない、LAの山火事...見渡す限りの…
  • 8
    「バイデン...寝てる?」トランプ就任式で「スリーピ…
  • 9
    軍艦島の「炭鉱夫は家賃ゼロで給与は約4倍」 それでも…
  • 10
    電気ショックの餌食に...作戦拒否のロシア兵をテーザ…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のアドバイス【最新研究・続報】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 5
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 6
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
  • 7
    中国でインフルエンザ様の未知のウイルス「HMPV」流…
  • 8
    失礼すぎる!「1人ディズニー」を楽しむ男性に、女性…
  • 9
    地下鉄で火をつけられた女性を、焼け死ぬまで「誰も…
  • 10
    戦場に「杖をつく兵士」を送り込むロシア軍...負傷兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中