聾者の高校生・奥田桂世さんの「聾者は障害者か?」に、日本社会はどう答える?
聾者には「聾文化」がある(写真はイメージ) YAMASAN/ISTOCK
<聾者の高校生が投げかけた「聾者は障害者か?」の問い。聾文化に積極的に接し、理解を深めることで、日本はより豊かで多様性のある社会を築けるはずだ>
聾者(ろうしゃ)は障害者か? そんな問い掛けが一部で話題になっている。
聾者とは何か。手元にある現代国語例解辞典(第三版)には「聴力に障害のある人」とある。文献によっては、聾者の言い換えとして「聴覚障害者」も目にする。どうやら日本においては「障害者」として捉えられているところがあるようだ。
でも、「ちょっと待った」と言っている人がいる。それは12月末に発表された一ツ橋文芸教育振興会主催の「第41回全国高校生読書体験記コンクール」で最優秀賞に選ばれた高校生、奥田桂世(けいよ)さんだ。
先天性の聾者である奥田さんは、両親も祖父母も聾者で、聾学校に通ってきたので、耳の聞こえない人に囲まれて育ってきた。それもあって、子供の頃は、耳の聞こえる「健聴者」こそ「普通ではない」と思っていた。受賞作「聾者は障害者か?」と題するエッセーにはそのような体験が書かれている。反響を呼び、NHKのニュースでも取り上げられた。
海外に目を向け、いくつかの言語の辞書に目を通してみる。「聾者=聴覚欠如のある人」などとあり、「聾者=障害者」という説明はあまり見当たらない。多くの言語では、聾者は「障害を持った人」というより、「聴覚欠如という特徴を持った人」となっているのだ。表現上のちょっとした違いだが、重要な違いでもある。
奥田さんのエッセーにあるように、聾者には「聾文化」がある。独自の言語(手話)、そして視覚と触覚を重視した生活習慣から発生した文化だ。それがあるがために、自分は障害者ではなく、健聴者と同じ社会を共にする「少数民族」に近い存在だ、と奥田さんは感じているという。
聾文化には簡単に接することができる
筆者自身は、アメリカで一人で生活を始めたときの1人目のルームメイトが聾者だったこともあって、日本に移り住んだ今に至るまで、聾者の友達に恵まれてきた。思い返してみれば、彼らを障害者として考えたことはない。むしろ、たどたどしい手話でしかコミュニケーションできない自分のほうに落ち度があると、しばしば痛感してきた。
ただ、聾者が障害者かどうかが議論になる日本でも、実は誰でも簡単に聾文化に接することができる。聾者が経営する、またはスタッフとして働く飲食店が東京にはいくつもあるからだ。
店に入り、コミュニケーションを取ってみる。注文は当然、手話によって行う。人との会話も同じく、手話で。手話は視覚言語なので、面白いことに遠く離れた人との会話も可能だ。つまり、違うテーブルに知り合いが座っていれば、「元気? 最近どう?」という挨拶を「遠距離」で飛ばせる。それだけでなく、離れた席同士での討論まで成り立つ。これこそ、奥田さんの言う聾文化の特徴の1つだと思う。