80年代の終わり、池袋の西武百貨店の地下にあったリブロという書店によく行った。家からわりと近い銀座近辺に教文館、近藤、山下、旭屋、福家、改造社、丸善、八重洲ブックセンターなど大きな書店が数々あったのにわざわざ池袋まで通ったのは、ひとえに品揃えや店の造りがユニークで、訪れて店内をぐるぐると歩き回るたびに脳みそがチクチクと刺激を受けるような気がしたからだ。
その書棚は書店員が意匠を凝らした作品のようで、古今東西の歴史と文化と社会をいろいろな角度から切り取った本が、からみ合うように並べられていた(気がする)。こんな小難しいものを誰が買うのだろうと不思議になる思想書を、目の前で手に取ってレジまで運ぶ人が少なからずあり、ニューアカ華やかなりし時代の空気にかぶれていた自分も背伸びして何冊か買って帰ったが、多くは2、3度パラパラとめくっただけであとはしばらく積んだままになった。
そんなことを思い出しながら、先週東京・有明で開かれていた東京国際ブックフェアへ行ってみた。出版社員の端くれでありながら、恥ずかしながらブックフェアと名のつくものには行ったことがない。ひと足先に訪れた編集部員Kから「すごい人の数」「行く価値はあった」と報告があった。何がどうすごくて価値があるのか。
受付にはぎっしりと行列ができていた。だだっ広い会場は人文書、実用書、児童書など出版社のジャンル別と、物流関係、印刷関係、デジタルパブリッシング関係とに出展社のブースが固まっている。受付を済ませると一目散にGoogleやボイジャーのブースがあるデジタル系のゾーンに向かう人が多かったが、電子書籍の川上(版元)から川下(端末)への流れを何となく見られるかなと思って、古手の出版社から順にまわり最後にデジタル系というルートにした。
洋書のコーナーではテーマ国らしいサウジアラビアの教育省・大使館が巨大なスペースを占めているが、人影はまばら。その周りではイランやスペイン、台湾の売り込み担当者が流暢な日本語で商談を誘っている。聖書協会、カトリック協議会、東本願寺出版部などが隣り合うエリアから少し離れた会場の隅に幸福の科学出版のブースがあり、カバーに菅直人首相の顔写真が載っている本をめくると、現世に戻ってきた(?)市川房枝と高杉晋作がインタビュー(「公開霊言」というらしい)に答えて菅首相についていろいろと語っている。
金曜日の午後に会場を見たかぎり、大手出版社のエリアは総じてあまりやる気が感じられなかった(そもそも「やる気」が必要なのかどうか、わからないが)。講談社や小学館、集英社などの最大手は、世間で話題になった本を雑然と並べているだけのようにも見える。文藝春秋のブースを通りかかった若い女性来場者が、2年前に休刊になった月刊誌がずらりとワゴンに並べられているのを見て「わーバックナンバー買えるんだ、すごーい」と連れの女性に言っていた。私にはただの在庫処分にしか見えなかったが。
ブースの看板が目を引くのは「書物復権8社の会」という場所で、東大出版会や紀伊国屋書店、岩波書店、みすず書房、白水社などがメンバーとして軒を並べている。「復権」という気合いの入った言葉を掲げているわりに、ブックフェアのそれぞれのブースには学術書、人文書、思想書などが整然と並んでいるだけだが、この会は活動を始めた14年前から専門性の高い既刊書の復刊プロジェクトというのをやっていて、昨年は2年前に他界した加藤周一の自選集などを復刻刊行している。
それはそれでとても有意義なプロジェクトなのはよくわかる。わからないのは、そうした取り組みが電子書籍の流れの中でどう位置づけられようとしているのかだ。
出版社にやる気がないように感じたのは、これだけ電子化のうねりが業界を揺さぶっているのに、版元だけが提供できるコンテンツや新しい価値を読者向けにどう発信・提供していくのか、ほとんどメッセージがないように見えたからだ。軒先にiPadを飾って展示している出版社もいくつかあったが、紙の本をデジタル化して表示している以上の何かがあるわけでもない。
デジタル系のゾーンへ行くと、そちらはそちらでハードウエアのスペックや、電子化・ネットワーク化する効率と商圏の広がりを語る言葉しか聞こえてこない。ある出展ブースのステージで著名なITジャーナリストが、iPad(タブレット端末)がいかに革命的なデバイスで、実はその出現を何年も前に予言していた人がいた...などという話を延々としていたが、そのような話をこの場所で語り、聴く意味がよくわからない。
人だかりができていたGoogleのブースで、GoogleブックスとGoogleエディションのプレゼンが15分くらいごとおきに行われている。新聞やネットで報じられている以上の内容はなさそうなことがわかり、よそへ移ろうとしたらGoogleの人に声をかけられたので、ブースの裏の商談スペースのようなところで少し話した。Googleブックスの全文検索がサービスとして画期的なことはわかるが、言葉を記号として扱うことの問題もあるのではないかと、アナログ思考な意見を言った。四季の移ろいを形容する表現でも、実用書と谷崎の『細雪』ではニュアンスや文脈が異なるのではないかと。それを串刺しで探すことにどんな意味があるのか。いや、体系やセグメントにとらわれずに膨大な知の世界からすくい取ることに意味があるのだと。
GoogleはGoogleが自らの使命と考えることをサービスとして具体化している。モリサワのブースで電子端末に表示されていたリュウミン書体の美しさも印象的だった。これだけメジャーなデバイスが出てきているのに独自の電子書籍端末(2画面!)を披露する光和コンピューターという会社には意気が感じられたし、河出書房新社や筑摩書房のブースには書物の何を文化として伝えていかねばならないと考えているか、みたいな信念のようなものが感じられた。
しかしそれらは、それ以上でもそれ以下でもない。一つのフェアでありながら、出版社のゾーンとデジタル系のゾーンには意思疎通が絶えた断裂があり、同じ商品を扱おうとしている見本市に見えなかった。「復権8社の会」の試みは貴重と思うが、プロジェクトを電子書籍にも広げることでどんな可能性があるのかを読者は知りたいのではないか。テクノロジーは、知を体系化し、世の中のトレンドをすくってきた大手出版社のノウハウと目利きを新しい商品としてどう昇華させようとしているのか。その説明が、広い会場のどこにもない。
過渡期と言えばそれまでだし、そもそもが刊行物や版権、翻訳権、出版制作・物流に関わる業界向けの見本市なのだから、もとより読者目線で見るのは筋が違うのかもしれない。が、これだけ電子書籍元年と騒がれているのに、これだけ当事者が集まった場で読み手を意識して――紙であれデジタルであれ――本の形や価値を再定義しようという意欲や試みがあまり見えないというのは不思議なことだった。
――と、他人事のように嘆いている場合ではない。本や雑誌の作り手、売り手の意識や発想に何が欠けているのか、リブロでのような体験は新たな世界でどんな形で再現されうるのか、などと考えながら東京ブックサイトビッグサイトを後にした。
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追記: 出展ブースとは別に、電子書籍に関連する講演、セミナーはいくつか行われていた。リブロ池袋店については、当時店長を務めた田口久美子さんの著書『書店風雲録』(本の雑誌社刊/文庫版はちくま文庫)に詳しい。