ほっとして隣を見たら「顔が半分ない死体」が...今も「戦地ウクライナ」に残る日本人たち、それぞれの物語
JAPANESE IN UKRAINE
24年3月にドネツク州クラマトルスクで筆者と再会したケンさん(右はウルグアイ人の戦友) KOSHIRO KOMINE
<義勇兵、ボランティア、長期在住者......銃弾が飛び交う異国に日本人が滞在し続ける理由。現地レポート第2弾>
2022年4月に初めてウクライナを訪れ、その後の2年余りの間に何度もウクライナとその周辺国に行き、戦争の最前線である東部地域をメインに、そこに暮らすウクライナの人々やボランティア、兵士などの取材を続けてきたフォトジャーナリストの小峯弘四郎氏。「戦地ウクライナ」で取材をする中で彼が出会ったのは、背景も現在の暮らしも多種多様な日本人たちだった。
「ウクライナの日本人」たちは、現地でどんな生活を送っており、何を行おうとしているのか? 危険と隣り合わせの国にとどまり続ける彼らのリアルな姿をレポートする。今回はその第2回。
連載第1回:元福島原発作業員、起業家、ピカチュウ姿のボランティア...戦火のウクライナで生き抜く日本人たちの実話
連載第3回:ウクライナ戦場で勲章を受けた日本人「BIGBOSS」...48時間の「脱出劇」
隣に「顔の半分ない死体」
福島県出身の45歳のケンさんは23年8月、前出の富岡さんと同じ第204独立領土防衛大隊に所属していた時にドネツク州クラマトルスク近郊で取材した。その後部隊を移り、現在は領土防衛隊外国人軍団に所属。ケンさんも自衛隊や他国の軍隊での経験はない。
20代の時は料理人としてホテルで勤務していたが、営業職へと転職。明るい性格と人懐っこい雰囲気で成功していたが、離婚して子供と離れ離れになったタイミングで、それまで寄付などを続けてサポートをしてきたウクライナに行く決断をした。現地入りしたのは23年4月だ。
「子供が理不尽に殺されていく現実に自分の子供のことが重なり、許せない、何か力になりたいと思いました」と、ケンさんは言う。
ウクライナ入りした後、日本人義勇兵がいるジョージア軍団のキーウ基地に行き入隊を申し出るが、軍隊経験のなさと英語力の問題で契約を保留されてしまう。その後、6月にほかの日本人2人と共に第204独立領土防衛大隊に入隊した。
部隊では砲兵としてグレネードランチャーのAGS-17を使用するグループにいた。敵の情報が無線で入り、その場所に向けて撃つ、ドローンが確認してまた無線が入る、その繰り返しだ。とにかく覚えることが多く必死で、怖いと言っていられる状況ではなかった。たまに無線で弾が命中した、ロシア兵を殺したと連絡が来たが、肉眼では敵は見えないので全く実感はない。
ただこちらが攻撃を始めると、敵にこちらの位置が分かる。自分たちがいた塹壕から2メートルの場所に迫撃砲が落ちて、塹壕の上部を覆う丸太の屋根が吹き飛んだこともある。
歩兵部隊の応援として前線に行くこともあったが、その時は途中で車が故障し、自分の装備とは別にツルハシや特大マットなど、約40キロ近くの荷物を持って5キロ近く歩くことになった。任務を終えた後、ようやく味方の歩兵戦闘車が通りかかり、それに乗せてもらい帰ることができた。担架に固定された兵士が横たわっていたので、顔をのぞくと顔が半分ない状態で死んでいた。
前線に近い街ドネツク州クラマトルスクで、諸事情で部隊を移ることになり契約の切り替えを待っているケンさんに再会したのは24年3月初旬だった。ケンさんの目にも、見るからにウクライナ軍の弾薬が減っているのが分かった。そんな状況になっても戦い続けるのは、「この戦争を最後まで見届けたいと思っている」からだ。