最新記事
医療

アルツハイマー病の創薬に革命をもたらす、脳のオルガノイド「ミニ脳」とは?

USING LAB-GROWN MINI-BRAINS

2023年4月24日(月)17時07分
エティエンヌ・オーモン(ケベック大学モントリオール校・心理学博士課程)
脳

脳 ILLUSTRATION BY NADEZHDA BURAVLEVA/ISTOCK

<アルツハイマー病は、未解明の部分がいまだ多い複雑な病気。これらの研究に皮膚の小片の細胞を培養した、患者の細胞由来のモデルが有望となる>

新薬開発では一般的にまず動物を使った実験で有望な物質を絞り込む。だが動物を人間の病気にかからせても、人間の患者と全く同じ症状が出ることはまれだ。そこで動物に代わるモデルとして培養細胞が注目されるようになった。

アルツハイマー病の治療薬の候補は400種以上も見つかっているが、アルツハイマー病は今でも不治の病とされる。なぜか。それらの物質は動物では有効性が認められても、人間には効かないからだ。

マウスは自然の状態ではアルツハイマー病を発症しない。実験を行うには発症を誘発しなければならないが、アルツハイマー病の発症メカニズムはよく分かっていない。

研究者は限られた知識を基に、実験用のモデルマウスを作製する。このやり方ではマウスは「擬似アルツハイマー病」になっているだけで、アルツハイマー病を発症しているとは言い難い。

筆者はアルツハイマー病研究用の新しいモデルの開発をテーマにモントリオール大学健康センターのニコル・ルクレール教授の研究室で研究を行った。

新薬開発では、効き目がありそうな物質をいきなり人間の患者に試すわけにはいかない。有効性と安全性を十分に検証した上で臨床試験に進まなければ、被験者を大きなリスクにさらすことになる。

そのため、研究者は人間の病気で観察された状態を再現したモデルを使って、有望な物質を絞り込む。研究用のモデル(動物が使われることが多い)は治療や診断ツールの開発に役立つばかりか、病気の原因やリスク要因を探る病理学研究にも欠かせない。疾患モデルは生物医学研究になくてはならないツールなのだ。

皮膚細胞をニューロンに

機能不全に陥った細胞を直接的に観察したり、細胞に働きかけたりできれば、研究者にとっては願ったりかなったりだが、アルツハイマー病ではそうはいかない。生きた患者の脳の断片を採取して、そこにあるニューロン(神経細胞)を調べることは不可能だ。

そこで筆者はそれに非常に近い手法の開発に取り組んできた。患者の皮膚の小片を採取し、その細胞を培養して1カ月ほどかけてニューロンにするのだ。

皮膚細胞がニューロンに「化ける」と言えば驚かれるかもしれないが、ある人の細胞の遺伝子コードは全て同じだ。細胞は遺伝子の発現の仕方によって、皮膚の細胞になったりニューロンになったりする。従って皮膚細胞にニューロンの遺伝子を発現させて、ニューロンに変えることは可能なのだ。

この方法で作製されたニューロンは元の細胞に見られた老化の特徴をとどめている。アルツハイマー病のような老化と関連のある疾患の研究には、このことは非常に重要だ。

この手法の利点は言うまでもない。アルツハイマー病の患者のニューロンを培養できることだ。これらのニューロンにはアルツハイマー病の特徴が現れるため、アルツハイマー病の研究に適している。

とはいえ細胞は単独で機能するわけではない。ほかのタイプの細胞との相互作用を通じてさまざまな働きをする。そこで細胞の培養から一歩進んで、オルガノイドと呼ばれる立体的な構造、いわばミニ臓器を作製する研究が進んでいる。

脳のオルガノイド、つまりミニ脳を作製すれば、より正確に脳の機能を再現でき、神経疾患の研究に威力を発揮するはずだ。

ミニ脳などのモデルの主要な用途は、疾患の病理学的な研究を助けること。従って、できるだけ信頼性の高いモデルが求められる。十分に信頼性の高いモデルであれば、臨床試験の前に新薬候補の有効性と安全性を検証する試験にも採用されるだろう。

モデルには限界もある

新薬開発用のモデルは有望な物質を絞り込むためのツールだ。その点で、患者から採取した細胞の培養サンプルやそれを使って作製したオルガノイドは理想的なモデルとなり得る。

なぜならアルツハイマー病のように未解明な部分が多い疾患でも、患者の細胞由来のモデルであれば、患者の体内で起きている現象を未知の部分も含めてより正確に再現していると考えられるからだ。

培養細胞やオルガノイドは将来的には第3の用途、すなわちオーダーメイド医療にも役立つ可能性がある。

同じ病気の患者でも体質はさまざまで、薬の効き目も人によって異なる。治療の選択肢が複数ある場合、現状では個々の患者に合うものが見つかるまでいろいろな方法を片っ端から試すしかない。

アメリカのアイオワ大学ではキンバリー・レスリー教授率いるチームがオルガノイドを使ってこの問題を解決する実験に挑んだ。子宮体癌と卵巣癌の患者から採取した組織でオルガノイドを作製し、複数の治療に対する反応を評価したところ有望な結果が得られたのだ。

また、香港とシンガポールの研究チームは上咽頭癌の放射線治療への反応と線量の調整にオルガノイドが役立つ可能性を実験で示すことに成功した。

こうした手法を使って将来的には個々の患者に最も合った治療法を今よりもはるかに迅速かつ的確に特定できるようになるかもしれない。

もっとも、アルツハイマー病の患者由来のミニ脳で有効性が確認された物質が、アルツハイマー病に本当に効くとは限らない。アルツハイマー病のような神経変性疾患はさまざまな要因が絡み、多岐にわたる異常が起きるからだ。

アルツハイマー病では神経系、心臓血管系、免疫系などさまざまな組織の働きに異常が起こることが分かっている。こうした複雑な病態を示す疾患の場合、研究用モデルの作製も複雑を極めることになる。

現状では、培養細胞でこうした複雑な相互作用を再現することは不可能だ。将来的により高度なモデルが開発され、治療の確立に道が開かれる可能性はあるが、モデルはあくまでもモデル。

疾患を完璧に再現することは永遠に不可能だろう。それを心得た上で、患者を救う強力なツールとしてモデルが活用されることが開発者の願いだ。

The Conversation

Étienne Aumont, Étudiant au doctorat en psychologie, Université du Québec à Montréal (UQAM)

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.

社会的価値創造
「子どもの体験格差」解消を目指して──SMBCグループが推進する、従来の金融ビジネスに留まらない取り組み「シャカカチ」とは?
あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ショルツ独首相、2期目出馬へ ピストリウス国防相が

ワールド

米共和強硬派ゲーツ氏、司法長官の指名辞退 買春疑惑

ビジネス

車載電池のスウェーデン・ノースボルト、米で破産申請

ビジネス

自動車大手、トランプ氏にEV税控除維持と自動運転促
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:超解説 トランプ2.0
特集:超解説 トランプ2.0
2024年11月26日号(11/19発売)

電光石火の閣僚人事で世界に先制パンチ。第2次トランプ政権で次に起きること

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対する中国人と日本人の反応が違う
  • 2
    Netflix「打ち切り病」の闇...効率が命、ファンの熱が抜け落ちたサービスの行く末は?
  • 3
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 4
    【ヨルダン王室】生後3カ月のイマン王女、早くもサッ…
  • 5
    NewJeans生みの親ミン・ヒジン、インスタフォローをす…
  • 6
    元幼稚園教諭の女性兵士がロシアの巡航ミサイル「Kh-…
  • 7
    ウクライナ軍、ロシア領内の兵器庫攻撃に「ATACMSを…
  • 8
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    若者を追い込む少子化社会、日本・韓国で強まる閉塞感
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査を受けたら...衝撃的な結果に「謎が解けた」
  • 3
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り捨てる」しかない理由
  • 4
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 5
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 6
    アインシュタイン理論にズレ? 宇宙膨張が示す新たな…
  • 7
    沖縄ではマーガリンを「バター」と呼び、味噌汁はも…
  • 8
    クルスク州の戦場はロシア兵の「肉挽き機」に...ロシ…
  • 9
    メーガン妃が「輝きを失った瞬間」が話題に...その時…
  • 10
    中国富裕層の日本移住が増える訳......日本の医療制…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大きな身体を「丸呑み」する衝撃シーンの撮影に成功
  • 4
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 5
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 6
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 7
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 8
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
  • 9
    モスクワで高層ビルより高い「糞水(ふんすい)」噴…
  • 10
    ロシア陣地で大胆攻撃、集中砲火にも屈せず...M2ブラ…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中