解体すると肉片、骨、衣類などが団子状に...... 中年男をえじきにする「巨大ヒグマ連続食害事件」とは
加害熊だったと宣伝して、村民を安心させる
第3の理由として、熊狩りの結果、加害熊ではない熊を射殺することも多かったことが挙げられる。
人が襲われると必ず熊狩りが行われたが、捕獲した個体が加害熊でなくても、加害熊だったと宣伝して、村民を安心させることがしばしばあったという。
筆者はそういう事例を、少なくとも3例は知っている。
これらのことから、筆者は、射殺されたのは加害熊とは別の個体であり、3つの事件は同じ個体によって引き起こされたのではないかと考えている。
三毛別事件を超える「日本最悪の獣害事件」の可能性
3つの事件が同じ熊の犯行だとすると、計8名もの人間を喰い殺したことになる。
三毛別事件を超える「日本最悪の獣害事件」であった可能性もあるのだ。
同一個体による凶行であったことを伺わせる状況証拠は、他にもある。
まず、3つの事件が隣接する地域で起こったことが挙げられる。
愛別町中央と剣淵町和寒東六線は、直線距離で15キロ程度。和寒川を支流とする天塩川流域と、愛別町が属する石狩川流域は山ひとつ隔てて隣り合っている。
さらに剣淵村の東、愛別村の北に接するのが、朝日村(現在の士別市)である。
この間に位置する山岳地帯を、ヒグマが悠々と行き来していたことは、当時の新聞記事からも知られるところである。
熊は「中年男性だけを食害」していた
もっと興味深い事実がある。
和寒の事件では父子が襲われたが、愛別町事件でも父子が狙われた。
しかも喰われたのは父親の熊次郎だけで、長男と母親には、まるで関心を示していないのである。
そして朝日村の事件で唯一食害された吉川も、働き盛りの37歳であった。
つまり加害熊がエサと見なしたのは、中年男性だけなのである。
エサと言えば、加害熊が、ヒグマの習性である「エサの隠蔽(いんぺい)」(笹の葉や土をかけてエサを隠すこと)をしていないのも共通している。これは加害熊がズボラであったというよりも、他の個体にエサを奪うことを許さない、巨大な個体の自信の表明とも受け取れる。
これらのことを整理して、筆者の推論を述べよう。
加害熊は、3つの事件現場から、それぞれ半径十数キロ圏内の山岳地帯を縄張りとする、山の王ともいうべき、巨大なオスのヒグマであった。
大正元年から始まった冷害凶作により、飢餓に駆られて里に下りてきた加害熊は、8月下旬、和寒で中野父子を見つけ、襲いかかった。彼の怪力を思わせる事実として、成人男性の死体を、山中深く、180メートルも引きずっていることが挙げられる。
これ以降、彼の補食原理は人間のオスが最上位となった。
同年11月、朝日村に移動した加害熊は、吉川と出会し、これを喰い殺した。「即座に噛み殺してその肉を喰い始めた」という状況が、すでに人間の味を知っていた事実を裏付けるだろう。さらに救助に来た村民4名を次々に襲った。彼らが食害を受けなかったのは、おそらく銃手6名が早々に到着したからだろう。
士別の猟師の追撃をかわし、根城に戻って越冬した加害熊であったが、翌年の大正2年は、前年以上の冷害凶作であった。空腹を抱え、いらだった加害熊は、忌み嫌う猟師の鉄砲を避けて南下し、9月に愛別村で熊澤父子を見つけ、襲いかかった。
もちろんこれは筆者の仮説に過ぎず、物証など一切ないし、関係者も鬼籍に入られ、残るのは状況証拠のみである。
しかしその可能性は高いと筆者は考える。
そしてそのように仮定すると、この加害熊は最大で8名を喰い殺した可能性のある、稀代の人喰い熊であったかもしれない。
中山茂大
ノンフィクション作家・人力社代表
昭和44年、北海道深川市生まれ。日本文藝家協会会員。上智大学在学中、探検部に所属し世界各地を放浪。出版社勤務を経て独立。東京都奥多摩町にて、築100年の古民家をリノベして暮らす一方、千葉県大多喜町に、すべてDIYで建てたキャンプ場「しげキャン」をオープン。主な著書に『ロバと歩いた南米・アンデス紀行』(双葉社)、『ハビビな人々』(文藝春秋)、『笑って! 古民家再生』(山と溪谷社)、『神々の復讐』(講談社)など。北海道の釣り雑誌『North Angler's』(つり人社)にて「ヒグマ110番」連載中。