習近平「歴史決議」──鄧小平を否定矮小化した「からくり」
2.国防と軍隊の現代化は、11月13日のコラム<習近平「歴史決議」の神髄「これまで解決できなかった難題」とは?>で書いたように、軍部における腐敗撲滅を実行しなければ実現不可能だったので、暗に腐敗撲滅に動くどころか、腐敗を招いた鄧小平を批判している。
3.最も明確なのは「党史に関する学習教育を堅実で効果的に行い」という部分だ。鄧小平は、拙著『習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』で詳述したように、毛沢東が後継者にしようと位置付けていた(陝西省や甘粛省などを含む)西北革命根拠地における功労者・高崗(当時の国家計画委員会主席、人民政府副主席、人民革命軍事委員会副主席)を虚偽の事実を捏造して1954年に自殺に追い込み、1962年には同じく西北革命根拠地を築き上げ毛沢東の「長征」の終着点としての「延安」を用意していた習仲勲を同じく虚偽の事実を捏造して1962年に失脚させたために、>「党史」を直視することを回避した。鄧小平時代、「長征」も「西北革命根拠地」もタブー視され、中華人民共和国が如何にして誕生したかということを含めて、語ってはならないことのように位置付けられてきた。
それを徹底的に覆そうとしている現象の一つが「党史に関する学習教育」なのである。
4.その意味で「長征」を正視することの意味合いは大きく、「習近平新時代の思想」を、「新たな長征」への試みであるとして「新征程」と位置付けている。これは即ち、「毛沢東の長征」と「習近平の新征程」を同等あるいはそれ以上に置いて、世界のトップを目指す決意を表している。
「難題を解決した」とすること自体が「最大の鄧小平批判」
11月13日のコラム<習近平「歴史決議」の神髄「これまで解決できなかった難題」とは?>に書いたように、まだ公報段階ではあるが、そもそも「歴史決議」に、「長きにわたって解決したいと思ってきたが解決できなかった難題を解決した」ということが盛り込まれていること自体が、最大の鄧小平批判なのである。
「毛沢東、鄧小平、江沢民、胡錦涛、習近平」の中で、「腐敗と闘わなかった」のは「鄧小平と江沢民」だけだ。
1989年6月4日に起きた天安門事件で若者が叫んだのは主として「民主」ではあるが、同時に党幹部の汚職、すなわち「腐敗」も批判の対象となっていた。しかし鄧小平は党や政府を糾弾する若者たちの叫びを武力によって鎮圧し、「腐敗」を黙認している。