15歳で戦場ジャーナリストになった少年が伝えるシリアの人々の苦しみ
A Young War Reporter’s Hopes
シリア内戦を現場からリポートしていた筆者。当時15歳だった MUHAMMAD NAJEM
<シリア内戦下で、爆撃と隣り合わせの生活を世界に発信し続けた少年。苦しんでいる人々の声をこれからも届けたい>
8歳になるまで、僕はごく普通の幸せな子供時代を母国シリアで送っていた。家族と一緒のシンプルな暮らしで、シリアは美しい国だった。
だが2011年、内戦が始まり、日々の暮らしは厳しいものとなった。僕らが住む首都ダマスカス近郊の東グータは政府軍に包囲され、避難することもできなかった。
シリア各地で爆撃やミサイルや化学兵器による攻撃が繰り広げられた。グータでも化学兵器が使われ、赤ん坊や子供や大人が世にも残酷な方法で殺された。僕は家族と、生き埋めになりませんようにと祈りながら防空壕で長い時間を過ごした。アサド政権は僕らの暮らす地域への食料や水、医薬品などあらゆる必需品の輸送を妨害した。
爆撃の恐れがあり、通学には危険が伴った。学校は何度も爆撃を受け、授業のために地下壕が造られた。
地下壕での授業は2年ほど続いた。だがWi-Fiはないし、子供にとってつらい環境だったから、結局は地上の校舎に戻った。爆撃も死も破壊も子供たちの心に大きな傷を残したが、それでも僕らは戦争のせいで教育の機会を失いたくなかった。だから学校に通い続けた。
13歳のときに父を爆撃で失う
15年、僕が13歳の時に父は爆撃で命を落とした。兄がジャーナリストだったから、僕もその仕事に関心を持った。そして家族と話すなかで、友達の苦難やシリアの実情について世界に伝えることは僕にもできると気が付いた。
僕は自撮りで動画撮影を開始した。兄がWi-Fiにつなぐ方法を考えてくれて、SNSを使って世界に動画を送り出すようになった。戦場記者としては世界最年少クラスだ。シリアの悲劇の真実を発信できたのは僕の誇りだ。
18年、僕は難民としてトルコに出国することができた。トルコに着いた時、僕は泣いた。危険は去ったけれど、生活は大変だった。言葉も人間も環境もシリアとは全然違う。
僕は今も、トルコの自宅から変化を起こそうと頑張っている。シリアには僕に動画を送ってくれる人たちがいるし、2カ月前には僕自身も兄とシリアに行き、現地で見たものを記録した。