コロナ禍で考えた日本人の正義感と「他人への忍耐の強要」
一見無関係であるように見えるが、正しい行い、または正しい対応をめぐって、名古屋入管の収容施設で亡くなったスリランカ人女性の事件はさまざまな問いを突きつけた――ルールの虜になった人間は、本当に安心で安全な世界を築けたのか、私たちは人に優しくできるのか、病に倒れた者にどう向き合うのか。日本社会のメンタルヘルスや人と人との健全な関係についても考えずにはいられない。
収容施設の看守は、目の前で人が死ぬのを見ても何もしないという心の痛みにどのように耐えられたのだろうか。救急車も呼ばず、食事も与えず、何もせずただただ死ぬのを見ていたのだろうか。日本の入管がまとめた今回の事件の報告書では、彼女の死と「医療体制の制約」、つまり医療の不備の因果関係はないとしている。この事件の真の犯人は誰だろうか。日本の入管がいうように彼女を死に追いやったのは人ではなく、病気だけだろうか。ここでも日本社会の正義や正義感が本質的に問われている気がしてならない。
日本人の正義は、共同主義的要素が強いようだ。つまり、人倫による「正しさ」と不可分で、個人よりも社会全体に共通となる「正しさ」が優先されるのが日本社会の特徴となる。一方、日本人の正義判断には全くの客観的な基準はなく、感情の関与を認めている。そのためなのか、自分の考え方や信条などと合わない異質な考え方への不寛容があるとみられる。
マスク着用を怠ったり(マスクを少しだけ下ろすだけでも)、要請に反する行動をする人を注意する「自粛警察」という社会的現象もその発想の現れだろう。
どんな社会も人間関係なしでは成り立たない。社会の基本は人との関わりである。 人を許せるかが、今の日本では問われているのではないか。
その昔、大和国で一人の青年が仙人に「人生に役立つ知恵一つを教えてくれ」と求めた。仙人は、「自分に厳しく、他人に優しく」と諭した――。
自分に優しく、他人に優しく
そんな物語があってもおかしくないほど、日本人は自分に厳しくなれることが美徳の一つだと考えている。言葉は「社会・文化を映し出す鏡だ」と言われている。若い頃はあまり実感していなかったが、最近は本当にそうだと思う。日本が誇る文豪である司馬遼太郎が未来の世代に向けて表した著書『二十一世紀に生きる君たちへ』の中には印象に残る一節がある。
「君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。――自分に厳しく、相手にはやさしく。という自己を」
司馬遼太郎は私が尊敬している作家の1人ではあるが、この一節にやはりどうしても納得できず、同調しかねるところがある。
自分に優しくできれば、他人にも優しくなれるはずである。つまり、こうである。
・自分に優しく+他人に優しく=優しく寛容な共同体
・自分に厳しく+他人に厳しく=厳しく不寛容な共同体
・自分に厳しく+他人に優しく=理想にしか過ぎない
冷静に考えてみたら、自分に厳しい人はどうやって相手に優しさを放出できるのか。その原動力となる優しい自分がいなければ、相手にも優しさなど振りまく力が湧いてこないのでは、と私は考える。
【執筆者】アルモーメン・アブドーラ
エジプト・カイロ生まれ。東海大学・国際教育センター教授。日本研究家。2001年、学習院大学文学部日本語日本文学科卒業。同大学大学院人文科学研究科で、日本語とアラビア語の対照言語学を研究、日本語日本文学博士号を取得。02~03年に「NHK アラビア語ラジオ講座」にアシスタント講師として、03~08年に「NHKテレビでアラビア語」に講師としてレギュラー出演していた。現在はNHK・BS放送アルジャジーラニュースの放送通訳のほか、天皇・皇后両陛下やアラブ諸国首脳、パレスチナ自治政府アッバス議長などの通訳を務める。元サウジアラビア王国大使館文化部スーパーバイザー。近著に「地図が読めないアラブ人、道を聞けない日本人」 (小学館)、「日本語とアラビア語の慣用的表現の対照研究: 比喩的思考と意味理解を中心に」(国書刊行会」などがある。