14年間で死者2000万人超 現代中国にも影引きずる「太平天国の乱」という未解決問題
太平天国の「われわれ」意識はヨーロッパとの出会いのなかで発見されたものであったが、同時に客家など辺境の下層移民がもっていた「自分たちこそは正統なる漢人の末裔である」という屈折した自己認識に裏打ちされていた。また彼らが「大同」世界の実現のために実行した政策は強圧的なもので、江南の都市など他地域に住む人々の習慣や考え方に対する包容力を欠いていた。
こうした不寛容さは元をたどればユダヤ・キリスト教思想の影響にたどりつく。抑圧された民の異議申し立ては、しばしば自分たちがかかえた苦難の大きさゆえにエスノセントリズム(自民族中心主義)に陥り、他者の苦悩に対する理解を欠いてしまうからである。
また宣教師の活動を含むヨーロッパの近代が「文明」を自任し、それと異なる他者を「野蛮」とみなして攻撃する側面をもっていたことも影響した。「唯一の神を信じるか」という問いは、それを受け容れない他者に対する暴力を後押ししたのである。
分権か、権力の独占か
さて太平天国は皇帝の称号を否定し、洪秀全と彼を支える5人の王からなる共同統治体制をしいた。軍師として政治・軍事の権限を任された楊秀清と、主として宗教的な権威として君臨した洪秀全のあいだには一種の分業体制が生まれた。
それは秦の統一以前の封建制度を模範とした太平天国の復古主義が生んだ結果であり、皇帝による専制支配が続いた中国に変化をもたらす可能性をもっていた。占領地の経営のために実施した郷官制度も中央集権的な統治の弊害を改め、新興の地域リーダーに地方行政への参加を促す分権的な側面をもっていた。
だが太平天国の分権統治には大きな矛盾があった。洪秀全に与えられた「真主」という称号は天上、地上の双方に君臨する救世主を意味し、中国のみならず外国に対しても臣従を求める唯一の君主だった。そこには権限を明確に区別し、分散させるという発想が欠けていた。
また洪秀全の臣下で「弟」だったはずの楊秀清は、シャーマンとして天父下凡を行うと洪秀全の「父」として絶対的な権限をふるった。彼の恣意的な権力行使に対する不満が高まると、楊秀清は「万歳」の称号を要求して洪秀全の宗教的な権威を侵犯した。
逆上した洪秀全は楊秀清の殺害を命じて天京事変が発生し、石達開の離脱によって建国当初の5人の王はすべていなくなった。その後諸王による統治は復活したが、洪秀全は独占した権力を手放さず、かえって中央政府の求心力の低下と諸王の自立傾向を生んだ。
この結果をどのように考えればよいのだろうか。
下層移民の異議申し立てから始まった太平天国は、同じ境遇にある人々に希望を与えたが、自分たちと異なる相手を受け入れ、これを包摂していく寛容さを欠いていた。この排他性は満洲人など清朝関係者を太平天国の掲げる「上帝の大家族」に包摂できなかっただけでなく、偶像破壊に反発した読書人や豊かな江南に住む漢族住民を遠ざけ、太平天国が新王朝として彼らの支持を広げるチャンスを失わせた。
くり返し現れる排除の論理
また太平天国のかかえた不寛容さは、その後の中国で進められた西欧諸国および日本の侵略に対する抵抗運動へと受けつがれた。中国だけではない。ヨーロッパとの出会いをきっかけに始まったアジア近代の歴史は、しばしばその内部に復古主義的な傾向をもち、列強の植民地化が深まるほど抵抗は激しく非妥協的なものとなった。
だが、この抵抗の歴史においても、異質な他者に対する排斥の論理はくり返し現れた。外国勢力に対してだけでなく、国内においても「敵」を創り出し、これを攻撃することで「われわれ」の結束を強化したのである。
中国の場合はこれに階級闘争の理論が結びつき、毛沢東によって「一つの階級が他の階級をひっくり返す」革命の暴力が肯定された。それが中華人民共和国の建国後、反右派闘争や文化大革命などの政治運動で「革命の敵」とみなされた人々に対する迫害を生み出したことはよく知られている。