かくも空虚な「上級国民」批判の正体
THE FAVORITISM QUESTION
また、中流層以上の人々の間にはこの言葉を受け入れる土壌があったとも言えそうだ。日本社会の階級構造と格差問題に詳しい早稲田大学の橋本健二教授(社会学)は、飯塚に向けられる非難は「一種の公務員たたき」だと分析する。戦前、戦中には、経済統制下の配給などで不正や干渉を働いた役人に対する怒りが国民の間にあり、それが日本人の公務員嫌いの根源にあると、橋本はみている。
「上級国民」たたきの危うさ
戦時中から社会に根を張る感情が2019年の池袋の事故で噴出し、他の事件や日常会話にまで広がったのはなぜか。橋本は「自己責任論」の存在を指摘する。今の日本には、上流層のみならず中流層の間でも、この自己責任論に基づき格差や貧困を容認する傾向が生まれているという。
日本では、経済的不平等を表す代表的指標のジニ係数は長期的に上昇傾向が続いている。格差が広がるなか、日本の社会学者グループが15年に行った「社会階層と社会移動全国調査」では、「チャンスが平等なら競争で貧富の差が広がっても仕方がない」という声は全体の52.9%と過半数に及んだ。
自己責任論を容認する姿勢は大企業のサラリーマン、正規労働者など中流層以上で強いことも、2016年の首都圏調査で分かっている。
努力すれば報酬が得られる、何も得られないのは頑張っていない証しだ、と考える人々にしてみれば、市場原理にさらされず、競争の仕組みが働いていないように思われがちな公務員もたたきやすい。その原理は人の犯した罪にも及ぶ。罪の「責任」を回避しているように見える加害者に「特権階級」だと攻撃が集まるのはこうした意識が働くからだ。
では中流層未満の人々は「上級国民」に批判的ではないのか。社会集団の意識を研究する大阪大学の吉川徹教授(社会学)は、経済的に恵まれない非大卒の非正規労働者などの人々は権威を承認する傾向が強いことから、「上級国民」たたきには参加していないとみる。
例えば吉川らの2015年の意識調査によると、経済的基盤が脆弱な若年非大卒層は、社会参加への意志、特に政治的積極性が他の社会階層より低い傾向にあり、「今の体制に『お任せ』で、受け身」な人が多いという。
ネットで「上級国民」現象に火を付けたのは少数の人々だろう。しかしそれを遠巻きに見つめ、肯定あるいは受容しているのは、中流層以上の人々なのではないか。「上級国民」たたきと言うと恵まれない「下級国民」が豊かで特権を有する人々を責めているような印象を抱きがちだが、実際の現象の主役は「中級国民」とも言うべき社会の主流を成す中流層の人々だった──。
2020年2月6日、池袋で事故を起こした飯塚が過失運転致死傷の罪で在宅起訴され、「逮捕を免れた」という「上級国民」たたきが再燃した。だが、この現象に当の上級国民そのものが占める位置はほとんどない。確かにどこかで不正を働いている上級国民は実在するかもしれない。しかし「上級国民」という言葉は、不正疑惑を糾弾する意図であれ、日常語としてであれ、主に中流層が発信し、受容しているのだ。
この言葉の内実は、上級国民に向かう「まなざし」でしかない。そしてこの空虚なまなざしは、本当に目を向けるべき不正や不平等も、噂レベルの陰謀論もひとくくりにしてしまう危うさがある。
映画監督の森達也はドキュメンタリー『放送禁止歌』で、視聴者も含めた「われわれ」の自主規制が「放送禁止歌」を生んだことをあぶり出した。そしてラストカットで、鏡に映る自身を撮りながら画面の先の視聴者に「おまえだ」とつぶやいた。「上級国民」現象は、この「おまえだ」という自問を再度、われわれに突き付けているのかもしれない。
<本誌2020年2月25日号「上級国民論」特集より掲載>
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2020年4月21日号(4月14日発売)は「日本人が知らない 休み方・休ませ方」特集。働き方改革は失敗だった? コロナ禍の在宅勤務が突き付ける課題。なぜ日本は休めない病なのか――。ほか「欧州封鎖解除は時期尚早」など新型コロナ関連記事も多数掲載。