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トランプ大統領による「世紀のディール」──中東和平案が想起させる憂鬱なデジャヴ

2020年2月4日(火)17時15分
錦田愛子

「世紀のディール」の凡庸さ

今回公表された「世紀のディール」は、正式名称を「繁栄に向けた平和──パレスチナ人とイスラエル人の生活向上のためのビジョン」といい、181ページにわたる長大な文書だ。その全文がインターネット上で公開されている。

内容を見てみると、トランプ米大統領が満を持して発表したわりに、残念ながらその多くは既成事実の追認と、古くからの提案を取り混ぜた、新しさのないものとなっている。以下で詳しく見て行こう。

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まず目を引くのは、地図上に示された、これまでのパレスチナ自治区とはやや異なる境界線である。やせ細って亀裂の入ったヨルダン川西岸地区、ヨルダン川沿いに細長く帯状に設けられたイスラエル領の拡張線がそれだ。また地図には表れないが、領土をめぐる議論の中では、西岸地区とガザ地区を結ぶ回廊の提案もなされている。

とはいえ地図上で西岸地区に入った亀裂や空洞は、パレスチナ・イスラエル紛争の現状を知る者なら、それらがアリエル、マアレ・アドミーム、グシュ・エツィオン、キルヤット・アルバといった既に固定化しつつある大規模なユダヤ人入植地であることが一目瞭然である。これらを追認し、さらに入植地とイスラエル領との間を結ぶ通路が広めに確保されているため、点ではなく亀裂として地図上に表されているのが分かる。

また、隣国ヨルダンとの境界沿いが幅広い帯状にイスラエル領として確保されているのは、1960年代のアーロン計画の復活といえる。ヨルダンとの国境線沿いに戦略的縦深性を確保するために、一定の幅の領土をイスラエル側の治安管理下に入れるべきとの提案は、第三次中東戦争後に当時の副首相イガル・アーロンによって立案された。さらに、西岸とガザを結ぶ回廊の建設は、オスロ合意に続く和平交渉の過程でも既に議論の俎上に上がっていた。今回との違いは、それがトランプ案では地上ではなく地下トンネルとして提案されていることくらいだ。

次に、聖地エルサレムに関して、トランプ提案が「東エルサレムをパレスチナの首都とする」と表現しているのも、大言壮語といえる。今回パレスチナ側の「エルサレム」として提案されているのは、行政区域として拡大されたエルサレムの郊外に過ぎない。同様の提案は、オスロ和平交渉の過程でもなされた経緯がある。しかも、今回指定されているアブディスやシュアファット難民キャンプは、その後に建設された分離壁により、エルサレムの中心部からは遮断されており、そこからは黄金のドームのある旧市街を視界に入れることすらもはや難しい。礼拝のためにパレスチナ側のエルサレムから旧市街へ向かうには、イスラエル側のエルサレムへの入境許可が必要になるだろう。

むしろエルサレムに関してやや新しいと思われる提案は、2000年の第二次インティファーダ以降、厳しく制限されてきた聖地エルサレムへの立ち入りを、世界のイスラーム教徒の礼拝に対して開放するという提案だ。これはアラブ諸国などからのトランプ和平案への支持の取り付けを意図したものであることは、明らかだ。聖地への訪問移動の管理は、これまで通りヨルダン政府が行うとされている。またこちらは大きな変更点として、ユダヤ人の「神殿の丘」での礼拝を認める、とあっさり併記されている点は看過してはならないだろう。衝突を避けるため、これまでは特別な許可なくしてユダヤ人は「神殿の丘」への立ち入りを認められてこなかった。緊張の高まる中で、当時のリクード党首アリエル・シャロンが強引に訪問したことで、第二次インティファーダが始まったことは、あまりに有名だ。

さらにトランプ政権は、「繁栄」のための経済投資を強調しているが、特に宣言する必要もなく、これまでもアメリカは、USAIDなどを通じてパレスチナ自治区内での経済支援を行う最大手ドナーだった。アメリカ製の武器で破壊された自治区を、建て直してきたのもアメリカが中心となり進める援助だった。むしろ今回の言明でトランプ大統領が意図しているのは、ビジネス・チャンスの確保だろう。一方的にUNRWAへの拠出金を停止し、今度は投資を始める、というのはアメリカにとって都合の良い投資ルートへの変更に過ぎない。

つまり、この度の「世紀のディール」で提案されているのは、これまで出されてきたイスラエル側の占領計画と、既成事実化されてしまった入植地の存在を所与のものとして認めた将来像だといえよう。トランプ大統領は、「パレスチナ人もイスラエル人も、今住んでいるところから追い出されることはない」と豪語するが、それは当然だ。今回の「ディール」が実現しようとしているのは、長年かけてイスラエルが築き上げてきた既得権益を、合法なものとして追認する、現状の固定化に過ぎないからだ。

受け入れ拒否が想起させるデジャヴ

単にこれまでの現状の追認と継続のみで、何ら変化がもたらされないのであれば、今回のトランプ提案は、さほど実害を及ぼさずに済むかもしれない。しかし懸念されるのは、強調されている以外の点で、今回の提案では当事者間の緊張をさらにあおり得る条件が提示されていること、また交渉の進め方自体が対立を悪化させるリスクを伴っていることだ。

あまり報道されてはいないが、今回のトランプ和平案は、ガザ地区の非武装化と、ハマースの武装解除を条件に出している。また、イスラエルとの衝突で命を落とした「テロリスト」(殉教者)の遺族に対して、生活保障等の支払いを停止することも挙げられている。これらはいわば、パレスチナ側からの抵抗運動の完全停止を求めているに等しく、とうてい受け入れられる可能性は低い。さらにパレスチナ難民のイスラエル領内への帰還権の放棄も求めているが、難民の帰還権はオスロ合意が破綻するひとつの契機になったとも指摘される、重要な課題である。このように、実現の難しい条件をいくつも並べた提案は、まともに協議するならパレスチナ内部でさらに対立をあおることになり、もしくは提案を拒否せざるを得ない立場にパレスチナ側を追い込むことになる。

拒否した場合の国際社会の反応については、すぐに想起される過去の先例のデジャヴがある。それはオスロ和平交渉の末期に、アメリカの仲介による「きわめて寛大な提案」を当時のパレスチナ大統領ヤーセル・アラファートが断ったと、強い批判を受けたことだ。イスラエル側のエフド・バラク首相はこの提案を受け入れており、アラファートは和平の不成立の責任を一方的に取らされることになった。実際には、「寛大な提案」の中身に、パレスチナ側にとって譲歩のできないエルサレムの問題や、難民の帰還権の問題が含まれていたという事情は、一切考慮されなかった。

今回はそもそも、エルサレムへの大使館移転により、仲介人の立場に立つアメリカとの関係が悪化したままの状態で、提示された和平提案である。前提条件として信頼構築もないままに、一方的に突き付けられた提案をゼロサムで飲むか飲まないか、というのはそもそも交渉の舞台では通常あり得ない。「世紀のディール」がまともな交渉の提案として機能する可能性はきわめて低く、憂鬱な状況の悪化が進んでいく未来しか思い描くことはできない。

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