『表現の不自由展』の議論は始まってもいない
閉鎖された会場前には来場者それぞれの「不自由」の見解が TOMOHIRO SAWADAーNEWSWEEK JAPAN
<微妙なテーマを扱う芸術展が抗議にさらされるのは世界共通だが、重要なのは作品が語られたかどうかだ>
まさに百家争鳴、議論百出のありさま。「あいちトリエンナーレ2019」の企画展『表現の不自由展・その後』をめぐる騒動だ。
8月1日に開幕し、展示作品の中に従軍慰安婦を象徴する『平和の少女像』や天皇の肖像を含む絵を燃やす動画があると知られるや、脅迫を含む抗議が殺到。安全上の理由から、わずか3日で中止になった。
作品を見た人は限られているのに、「表現の自由」をめぐって今もネットやメディアで激しい空中戦が展開されている。異常なほど抗議が拡大した(8月末までに1万件以上)背景には、政治家たちの「検閲」とも言える発言がある。
河村たかし名古屋市長は「日本人の心を踏みにじる」と中止を要求。菅義偉官房長官はトリエンナーレへの補助金不交付の可能性を示唆した。その後、文化庁は補助金の不交付を発表。異例の決定だが、その過程の審査の議事録が存在しないという不透明さも判明した。
筆者は9月下旬、トリエンナーレを訪れた。不自由展以外の展示を見て感じたのは、作家が意志を持って社会や政治に切り込む、問題提起的な作品が多いということだ。
例えば藤井光の『無情』は、日本統治時代に台湾の人々を「皇民化」する様子を報じたプロパガンダ映画を展示。この映画と、そこで行われていた訓練や宗教儀礼を今の愛知県内の外国人らが再演した映像を並べることで、ある種のグロテスクさが浮き上がる。このような形で、多くの不自由展以外の作品は、誤解を恐れずに言えば十分「政治的」で「論争的」だ。
それに対し、『平和の少女像』は隣に椅子を並べた簡素な作り。昭和天皇のコラージュが登場する『遠近を抱えて』シリーズは、(1986年の富山県立近代美術館での事件など)作品をめぐる複雑な前提知識を必要とする。メッセージ性が前面にあるというより、観客の解釈力を試すような作品だろう。
不自由展の注目度だけが突出しているアンバランスさが突き付けるのは、慰安婦や天皇制がつくづく今の日本にとって「鬼門」ということだ。禁忌のテーマに触れただけで拒絶反応が起き、作品は見られずじまい。結局、表現の微細な内容まで議論が及ぶことはない。
「ドクメンタ」でも軋轢が
微妙なテーマを扱う作品がたたかれる例は国内外に数多い。挑戦的なテーマ設定で知られるドイツの「ドクメンタ」は、トリエンナーレの津田大介芸術監督も参考にしたと公言する現代美術展だ。
そこでは2017年、現代の中東難民と第二次大戦中のユダヤ人迫害を比較する詩の朗読会がユダヤ系団体からの抗議で内容差し替えになった。特に公金が投入されるイベントは有象無象の圧力にさらされやすい。
トリエンナーレの主催者側もこうした点は承知していただろう。しかし不満や批判の声に正面から向き合う覚悟はどれほどあっただろうか。