明治時代の日本では9割近くが兵役を免れた──日本における徴兵制(2)
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<明治6年(1873年)徴兵令の制定で、すべての成人男子が兵役を担う義務があるとされた。しかし、実際には日清戦争期でも全体の5%程度しか徴集されず、兵役逃れが問題となった。その背景と影響について、尾原宏之・甲南大学准教授が論じる。論壇誌「アステイオン」90号は「国家の再定義――立憲制130年」特集。同特集の論考「『兵制論』の歴史経験」を4回に分けて全文転載する>
※第1回:徴兵制:変わる韓国、復活するフランス、議論する日本──日本における徴兵制(1)
徴兵制はいかにして正当化されたか
明治六年一月一〇日、徴兵令が制定された。そのなかで、徴兵は次のように規定されている。「徴兵ハ国民ノ年甫はじメテ二十歳ニ至ル者ヲ徴シ、以テ海陸両軍ニ充タシムル者ナリ」。
徴兵令とは、つまるところ国家権力が二〇歳になった国民(男子)を徴発して兵員に充当する宣言である。維新後わずか数年にして徴兵令が制定されたのは、多分に実利的な理由に基づく。明治五年に起草された山縣有朋の意見書「論主一賦兵」は、徴兵制を導入すべき理由のひとつに、志願兵制はコストがかかることをあげている。志願兵は職業的兵士なので、給与や退職後の年金が必要になるからである。
一方、徴税と同じ感覚で国民を徴発できる仕組みを作れば、はるかに安上がりとなる。多くの研究者が指摘するように、気性が荒くプライドが高い士族兵の統制が著しく困難だったことも背景にはあるだろう。志願兵制を採った場合、応募者の大半が士族であることは、容易に想像できた。
だが、実際に徴集される民衆から見れば、徴兵制は単純に迷惑な制度である。徴兵制は「強迫兵制」「強迫法」とも呼ばれた。これは義務教育が「強迫教育」と呼ばれていたことに似ている。そして徴兵制と義務教育は、地租改正とともに民衆の激しい拒絶反応を引き起こし、血税一揆などとよばれる暴動の原因ともなった。
抵抗の大小はともかく、民衆の拒絶は予期されていたことに違いない。政府は徴兵令制定に先立って、制度を正当化する論理を用意していた。それらは、徴兵の詔みことのり、さらには趣旨説明書である徴兵告諭という文書に記されている。
徴兵の詔と徴兵告諭は、第一に、原則として成人男子がなんらかの兵役に服する形態こそが日本本来の兵制なのだ、という擬制を前面に出した。明治維新は「王政復古」であり、明治四年の廃藩置県は江戸の封建制の崩壊と古代の郡県制への回帰を意味する。兵制もまた「上古ノ制」に回帰するのが当然なのだ。そういう理屈である。
主たる根拠は律令兵制であった。たとえば養老律令は、一戸の正丁(二一歳〜六○歳の男子)三人につき一人を徴集すると定めている。明治憲法の公式注釈書といわれる伊藤博文の『憲法義解』(明治二二年)が兵役義務条項の具体的根拠として選んだのも、古代の律令兵制であった。ただし、この歴史的遡及はしばしば神武天皇の事績にまで延伸された。