日露平和条約締結は日本の決断次第──そろそろ2島返還で決着の時だ
つまり日本は、サンフランシスコ講和条約によって国後・択捉を含む全千島列島を放棄したのだ、と政府自らが認めたのである。(―ただし、放棄はしたがサンフランシスコ講和条約にはソ連は参加していないので、その帰属は未定という立場)
そしてこの路線のまま1955年から1956年まで、ロシアとの国交回復・平和条約交渉が開始される。以下、『日ソ国交回復秘録~北方領土交渉の真実~(松本俊一著、朝日新聞出版)"モスクワにかける 虹 日ソ国交回復秘録"から改題』は日ソ交渉に直接あたった松本氏による第一級の回想録として有名であるから適宜引用する。
そしてこの本の中で、紆余曲折はあったものの、当時、日本側の重光葵全権大使は、
「かくて重光君は七月末(一九五六年)、モスクワに赴き、大いに日本の主張を述べたが、一週間ばかり経つと『事ここに至っては已むを得ないから、クナシリ、エトロフ島はあきらめて、平和条約を締結する』」といって来た。
出典:前掲書。強調筆者)
と、無念の思いは強いが、国後・択捉の両島を諦めて平和条約を併結する方針だったのである。ところが重光外相(鳩山一郎内閣)の態度はこの後急変し、国後・択捉・歯舞群島・色丹の「四島一括の帰属の確認」と強硬路線に転換した。なぜだろうか。公な文章にはなっていないものの、ここに冷戦下にあって日ソ和解を嫌うアメリカの横やり、つまり有名な「ダレス恫喝」が強く影響したのだ。
ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった
出典:前掲書
これが「ダレス恫喝」である。
態度を急変させた日本
この日本政府の態度の硬化により、2島返還による平和条約締結で決着しかけていた交渉は、195年2月に入って、日本が4島返還(帰属確認)を主張することで、一旦日本側が放棄した国後・択捉の領有を当然譲らないソ連の主張と真っ向から対立することになる。結局、『日ソ共同宣言』がなされ日ソの国交は回復したが、平和条約の締結ができないまま、この異常な状態が70年以上続いたまま現在に至る。