イ・ランの『イムジン河』──ボーダーを、言葉を越えて、幾重にも折り重なった意味に思いを馳せる
これは、作詞作曲者不明の朝鮮民謡とされたことについて朝鮮総連が朝鮮民主主義人民共和国という国名と作詞作曲者名のクレジットを入れるよう抗議し、トラブルを恐れたレコード会社が一方的に発売中止を決めたもの。韓国側の圧力や親会社への配慮も存在したと言われている。
なぜ今この歌なのか
その後、事実上の「放送禁止歌」となって長くタブー視されていたが、このフォークルバージョンは2002年に34年の歳月を経て初めてシングルCDとして発売され話題となった。また松山のエピソードを原案にした2005年の映画『パッチギ!』(井筒和幸監督)では、テーマ曲となった(音楽監督は加藤和彦)。数奇な運命をたどった幻の名曲として、今も歌い継がれている。
なぜ今、韓国の若いシンガーソングライター、イ・ランがこの歌を歌うのか。無粋だと思い、直接聞いてはいないが(とはいえ機会があったら聞いてみたい。 ⇒後日、インタビューしました。〈上〉・〈下〉)、近年の、北朝鮮を取り巻く軍事、外交情勢の緊張状態が念頭にないはずはないだろう(「利敵行為」を犯罪とする国家保安法は今もある)。しかも、歌われているのはフォークルによる日本語詞だ。日韓関係の現状への思いも読み取りたくなる。
韓国で、公の場で日本語の歌が歌えるようになったのはそう昔のことではない。過去の植民地支配という歴史的経緯から日本の大衆文化の流入を規制してきた韓国では1998年、当時の金大中大統領がその解禁の方針を表明して以来、段階的に開放してきた。現在ではほぼ全面開放とされる一方で、とくに地上波での放送にはいまだ「自主規制」による事実上のしばりがないとは言えないという。
「自由」に近づく音楽
南を思い北で作られた歌を、日本で歌おうとして禁じられたその歌を、南で生きる人が日本語で手話をまじえて歌う、その題材となったまさにその川辺で。しかも今。東アジア、さらに言葉を越えた広がりを射程に、幾重にも折り重なった意味が込められたその選択と批評的センスには敬服するしかない。
あらゆるボーダー、いや私にとっては私自身の人生の近くにある様々なボーダーを乗り越え自由に近づく試みのようなものが、音楽と映像というかたちで、しかも美しく昇華されたかたちで目の前に提示されたことに年初から心が震えた。
いや、音楽とはもともとそういうものだったのかもしれない。そして、イ・ランはそういうアーティストだ。3月には来日ライブが予定されているという。
【追記】
この記事を出した後、現在ソウルで個展「Imjingawa」を開催中の韓国の現代美術作家、ナム・ファヨン(Hwayeon Nam)を通じて、イ・ランがこの歌と出会ったことを知った。同展のメインとなる映像作品《Imjingawa》は、動画サイトを通じてザ・フォーク・クルセダーズの曲を知り興味を持ったナム・ファヨンが、日本でリサーチとインタビュー重ねたうえで制作したもの。この映像のために女性の声を探していた彼女の依頼により、イ・ランが朝鮮語と日本語で歌って録音したのがきっかけだ。
北朝鮮から日本へ、そして半世紀を経て、こうして韓国から届いた一連のリアクションに、改めて歌の持つ力を思う。その後、イ・ラン本人ともやり取りした(ひとつ重要な確認として、手話は「韓国手話」である)。機会があれば改めて紹介したい。 ⇒インタビューしました(〈上〉・〈下〉)。
[執筆者]韓東賢(はん・とんひょん)
日本映画大学准教授(社会学)。大学まで16年間、朝鮮学校に通う。卒業後、朝鮮新報記者を経て立教大学大学院、東京大学大学院で学び、現職。専攻は社会学。専門はナショナリズムとエスニシティ、マイノリティ・マジョリティの関係やアイデンティティの問題など。主なフィールドは在日外国人問題とその周辺、とくに朝鮮学校とそのコミュニティの在日朝鮮人。最近は韓国エンタメにも関心。著書に『チマ・チョゴリ制服の民族誌』(双風舎,2006 *現在は電子版発売中)『平成史【増補新版】』(共著,河出書房新社,2014)『社会の芸術/芸術という社会』(共著,フィルムアート社,2016)など。