アウシュビッツの隣の日常を描く『関心領域』...「異例の手法」で監督が観客に強いるもの
Ordinary Monsters
実際、『シンドラーのリスト』などホロコーストを描いた映画の一部は、それだけで十分むごたらしい事実に、余計な脚色を施したとして一部から批判を受けてきた。
これに対して、グレイザーは脚色をできるだけ排した。撮影の時はセットの地下に引っ込み、俳優たちが自然体で演じる様子をモニターで見守った。また、夕暮れの柔らかな輝きではなく、真昼の強い日差しの中で「平凡な暮らし」を撮影することでその異常さを際立たせた。
「(映像に)価値判断を含めないようにすることが重要だった」と、撮影を担当したウカシュ・ジャルは語る。
実際、『関心領域』の中で、ヘス家は主人公というよりセットの一部のようだ。だから観客は、例えば急に登場して一家の客室に泊まる女性が、ヘドウィグの母親であることを状況から察しなければならない。彼女は、夜中に部屋の窓を照らすのがアウシュビッツの焼却炉の火であることに気付くと帰ってしまう。
「誰もが持つ暴力性」
映画の終盤になって初めて、ヘスの思考が語られるシーンがある。ベルリンで党の会議に出席した後、ヘスは妻に言うのだ。人間の集団を見ると、全員を最も効率的に毒ガスで殺す方法を考えてしまう、と。
『関心領域』では、収容所の中で起きていることが直接描かれることはないが、収容者が全く登場しないわけではない。背の高い草むらの中にしま模様の服を着た人影が見えたり、収容者らしき使用人がヘスの泥と血まみれのブーツを洗うシーンもある(ただし彼が家の中に入ることはない)。
そして観客と同じように、実はヘス家もその「平凡」が虚構であることを知っていると、グレイザーは示唆する。
ヘドウィグは、ユダヤ人から押収された物品が一家にもたらされていることを女友達に語るし、かくれんぼをして遊ぶ息子たちは、庭の温室をガス室に見立ててシューという音をまねたりする。
この映画を見て、ナチスが支配する時代も平凡な生活を送ることは可能だったと主張することはできる。だが、異常な世界と平凡な世界は決して完全に分離されているわけではない。自らもユダヤ人であるグレイザーは、この映画は「誰もが持つ暴力性」を描いていると語る。