日本企業はなぜ「お雇い外国人」に高額報酬を払うのか
明治政府の「お雇い外国人」は高額所得者
「お雇い外国人」(もしくは、「お抱え外国人」)は、一般には明治政府の近代化政策=殖産興業政策のもとに、欧米の先進国から任期制で招かれた、行政・産業・教育・医療等市民生活のあらゆる分野の専門家である。西洋の学問・制度を日本の定着化させるための指導・助言をしてくれる、いわば、コンサルタントだ。
明治以前の江戸時代でも、鎖国政策をとっていた初期の頃には、徳川家康がヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムズなどを厚遇して、外交顧問や技術顧問にしていたことがあった。
しかし、明治維新以降は日本の近代化を推進すべく、産・官・学一体となって、西欧の先進技術・知識・文化等を学ぶために、数多くの外国人専門家を高額報酬で「お雇い外国人」として雇用していた。基本的には任期付きで、英語教師で作家のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や建築家のジョサイア・コンドルのように、日本に永住する人物もいた。
1868年(明治元年)から1889年(明治22年)の間に来日した「お雇い外国人」は2690人で、主な内訳はイギリス人1127人、アメリカ人414人、フランス人333人となっている。1900年までの約30年間でみると、イギリス人4353人、フランス人1578人、ドイツ人1223人、アメリカ人1213人となっている。
特徴的なのは、イギリス人は主として政府の工部省の雇用で、工業振興のための技術者や職人として、フランス人は軍(とりわけ、陸軍)雇用として、アメリカ人は教員として、それぞれ雇用されていたことである。
「少年よ、大志を抱け」という言葉を残したとされる、札幌農学校初代教頭のW.S.クラーク博士もアメリカのマサチューセッツ農科大学の学長でありながら、サバティカル(大学の長期休暇)を利用して1876年(明治9年)に来日し、日本の青年に農業を教えていたのである。ただ、彼は日本に約8カ月滞在しただけにもかかわらず、自分の銅像が立ち、あの言葉がこれほどまでに有名になるとは思わなかっただろう。
「お雇い外国人」が高額報酬で雇われていたことを示すには、当時の日本の高級官僚の月給と比べるとわかりやすい。
明治政府の高官の月給をみると、太政大臣の三条実美は月俸800円(年俸9600円-現在の貨幣価値で、月に約480万円、年に約5760万円:明治時代の1円の6000倍を現在の貨幣価値として積算)、右大臣の岩倉具視は月俸600円(年俸7200円-月約360万円、年約4320万円)、工部省・大輔の伊藤博文は月俸400円(年俸4800円-月約240万円[年約2880万円])といった具合だ。
他方、「お雇い外国人」の場合、近代化政策が直結するような鉄道・造船等の社会インフラ整備・外交関係・教育(大学)関係の仕事に従事した人たちの月俸は高くなっているようだ。
フランスの製鉄・造船関係の顧問技師のフランソワ・レオンス・ベルニは最も高い報酬で、月俸1000円(年俸1万2000円-月約600万円、年約7200万円)、次いでイギリス人の鉄道顧問技師のエドモンド・モレルは月俸850円(2年目年俸1万200円-月約510万円、年約6120万円)、オランダ人の宣教師・法学者のグイド・フルベッキは大学南校(現在の東京大学)や明治学院(現在の明治学院大学)の理事長を経験し、日本の大学教育に貢献した人物であるが、彼は月俸600円(年俸7200円-月約360万円、年約4320万円)であった。
駐日公使、駐清公使、枢密院顧問官だったイギリス人のアーネスト・サトウは月俸300円(年俸3600円-月約180万円、年約2160万円)、大森貝塚を発見した帝国大学教師のエドワード・モースは月俸350円(年俸4200円-月約210万円、年約2520万円)となっている。また、外務省顧問のドイツ人ヘルマン・ロエスレルは月俸600円(年俸7200円-月約360万円、年約4320万円)だった。委託された仕事が明治政府の重要な国策かどうかで、彼らの報酬には格差があったようだ。
いずれにしても、東方の未開の地でリスクの高い地域に出稼ぎにいく「お雇い外国人」にとっては、高い報酬でなければ、引き受けられない仕事であったことは確かである。
(以上の出典は植村正治「明治前期のお雇い外国人の給与」『流通科学大学論集-流通・経営編 第21巻第1号』流通科学大学、2008年/ユネスコ東アジア文化研究センター編『資料 御雇外国人』小学館、1975年/「明治人の俸給」)