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追悼任天堂を率いた愛すべき頑固者
半世紀以上にわたって任天堂の社長を務めた山内溥。家業を世界的企業に成長させた非クリエーティブ人間の哲学
「山内イズム」 そのDNAは今も任天堂に受け継がれている JIM TANNERーREUTERS (YAMAUCHI), TORU HANAIーREUTERS (MARIO)
任天堂の前社長山内溥(ひろし)が、9月19日に85歳で亡くなった。ちょうどスティーブ・ジョブズがこの世を去ったときのように、普段は経済誌を読まないような人間までが1人の実業家の死を悼んだ。山内は、素晴らしいものを作り出すのに必ずしもクリエーティブな人間である必要はないことを証明してみせた。
山内は、『ウルトラハンド』や『ゲームボーイ』を開発した任天堂の「マッドサイエンティスト」横井軍平とは違っていた。『スーパーマリオブラザーズ』や『ドンキーコング』『ゼルダの伝説』を発案し、今も任天堂の頭脳を1人で担っている天才、宮本茂とも異なる。
だが、若い宮本を任天堂に雇い入れ、町工場に住み着くほど機械いじりが好きだった横井が暇つぶしに作ったロボットアームに目を留めたのは山内だった。このロボットアームを商品化した『ウルトラハンド』は大ヒットとなり、任天堂はおもちゃ業界への参入を果たす。
1929年に任天堂を設立した祖父が1949年に病に倒れたことで、山内は大学を中退して同社に入社する。ゲームジャーナリストのスティーブン・ケントが著書『ビデオゲーム究極の歴史』に書いているように、22歳の山内はほかに家の者を社に入れないという条件で、家業を継ぐ。その結果、山内のいとこは解雇されてしまう。
失敗はソニーとの決裂
ケントが「権威主義的」と評する山内のワンマンな経営スタイルは、社長就任当初から明らかだった。マリオやカービィといったいつも愉快なキャラクターの後ろにいるのが、色の薄いサングラスを掛けたむっつりした頑固者だったことを、任天堂ファンのケントは愛すべき皮肉と受け取っている。山内はメジャーリーグのシアトル・マリナーズのオーナーだったが、シアトルへ試合を見に行ったことは一度もなかった。
戦争に負けた天皇が国民に対して自分は現人神ではないことを伝える状況に追い込まれた頃から、アメリカが真珠湾攻撃以来2度目の本土攻撃である9・11同時多発テロに見舞われるまで──。経営者の顔触れが目まぐるしく変わる今から考えれば、これほど長い間、山内が社長の座にあり続けたのは驚異的だ。1人の人間が会社を53年間も率いたことはまれな例だろう。
山内が、花札やトランプの専業メーカーだった家業を世界的なエンターテインメント企業に押し上げたのは偉業というしかない。社名を「任天堂骨牌(かるた)」から「任天堂」に変更したのは63年。以後、山内はタクシー会社からラブホテル経営まであらゆるジャンルに手を出し、最終的に任天堂をテレビゲーム企業にした。
一方、かつて山内が仰ぎ見る存在だったアメリカ最大のトランプメーカー、ユナイテッド・ステーツ・プレーイング・カードは、いまだにトランプゲームの1つもテレビゲーム化していない。多角化して世界企業になった任天堂との差は歴然だ。
山内が迷いからしくじったことが1度ある。90年代半ば、幅広い人気を呼んでいたスーパーファミコンのCD-ROM機をソニーと共同開発していたとき、急に他社にくら替えしてしまう。裏切られたソニーは独自に試作品を開発し、それが現在のプレイステーションとなる。
私たちには「任天堂プレイステーション」で遊ぶ日は来ない。だが任天堂の他のゲーム機を持っているなら、電源を入れ、コントローラーを空のほうに向けて、かつてサングラスの奥から魔法の世界を見ていた気難しい男に哀悼の意を表してみてはどうだろう。
© 2013, Slate
[2013年10月 1日号掲載]