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ヴェネツィア・ビエンナーレとは何か(1):水の都に集まる紳士と淑女
開催都市は毎回ヴェネツィアだから誘致活動はない。数十万人の観客が訪れるとはいえ、数百万単位のオリンピックやワールドカップとは一桁違うから入場料収入も大したことはない。放映権の見返りに巨額の賄賂をもたらす世界テレビ中継もない。サッカーなどに比べると、現代アート界最高の祭典ははるかに旨味が少ないのである。国際的ではあるけれど、大衆的な巨大イベントではないのだからそれも当然だ。
だがビエンナーレ、特にそのプレビューに集まる一群の紳士と淑女は、IOCやFIFAの幹部よりも、はるかに高いプライドとそれなりの利権を有している。「現代アートとは何か」と問われて即答できる人は専門家でも少ないだろうが、彼ら彼女らは、まさに現代アートの価値を決めている特権階級なのだ。スポーツであれば抜きん出た才能は誰が見てもわかるし、演技点など採点に恣意性が入りうる競技を除けば、その才能は計測・記録という形で客観的に数値化もできる。だがアートには、良し悪しを決める絶対的な基準はなく、誰かの判断を待たねばならない。彼ら彼女らは、その「誰か」としてアート史に残すべき作品を選び出す。自らの死後も続くアートの正史編纂に携わる歓びと自負心、それに現世におけるささやかな、あるいは多額の報酬。「プライドと利権」とはそういう意味である。
多額の報酬? そう、報酬は職種にもよるがもちろんあるし、それが動機の一部を成す。好むと好まざるとに関わらず、アートの価値と価格は(ほぼ)分かちがたく結びついていて、価値を決めるのは彼ら彼女らなのだから、いろいろな形で利得の還元がありうる。その意味では、財団それ自体ではなく、財団をも含めた上記VIPがIOCやFIFAに当たるとも言える。だからこそ、ビエンナーレのプレビューに行くのは面白い。各国から集まるVIPの振る舞いを通じて、アートワールドの構造を垣間見ることができるのだから(「だとすれば、ビエンナーレのような非商業的なフェスティバルではなく、アート・バーゼルに代表されるアートフェアに行けば?」という一見もっともな疑問への答は次回以降に述べる)。
この連載では、現代アートの価値と価格を決めている人々、つまり狭義のアートワールドの構成メンバーを紹介し、併せて「現代アートとは何か」を考えてゆく。輪郭の曖昧なその集合体が現代アートの価値を決めている。それが正当なことなのか、彼らにその権利があるかどうかは読み進める内にわかっていただけると思う。そのときには、「現代アートとの価値とは何か」という大仰な問いの答も、自ずと明らかになっているはずだ。
■ビエンナーレ2015への批判
ところで、今回のビエンナーレには例年にも増して批判が多い。好意的だったのはニューヨーク・タイムズほかわずかなメディアだけで、他は「憂鬱で面白みがなく醜い」(アートネット・ニュース)、「世界とアーティストと作品を、真の批判的洞察力も感情もなく組み合わせた」(リベラシオン)、「心ときめく冒険ではなく落ち込んで歩みも止まる」(ガーディアン)などとさんざんである。僕はとてもよく出来た展覧会だと感じたが、こうした反応が出る理由はよくわかるし、批判が出ること自体が健全で面白いと思う。
この筆者のコラム
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ヴェネツィア・ビエンナーレとは何か(1):水の都に集まる紳士と淑女 2015.10.07