コラム

タイ騒乱を忘れる日本人

2011年02月01日(火)13時11分

 日本ではすっかり忘れさられてしまった昨年春のタイ・バンコク騒乱だが、昨日、約5000キロ離れた東京で動きがあった。デモを行った「赤シャツ隊」が支持するタクシン元首相の代理人ロバート・アムステルダム弁護士が会見を開き、国軍によるデモ隊への「武力行使」を国際刑事裁判所(ICC)に提訴する方針であることを明らかにしたのだ。

 アムステルダム氏がわざわざ東京で会見したのは、タイ当局から入国を禁止されているため。約80人が死亡したとされる昨年4、5月の騒乱について、アムステルダム氏は「国軍は150人以上の狙撃兵を動員した」などとアピシット政権を非難している。ただタイは国際刑事裁判所の設置について定めたローマ規程を批准しておらず、赤シャツ隊側の言う「国軍による虐殺」が国際法廷の場で裁かれるめどは立っていない(このためアムステルダム氏は「アピシット首相が英国籍をもっている」とやや苦しい主張をしている)。

 会見はタイと結んで二元中継され、バンコクの赤シャツ隊幹部も発言したのだが、その1人の「チュニジア、カイロでも独裁者や偽装した民主主義との戦いが行われている。われわれの闘争は1つだ」という言葉を聞いて「あれ?」と思った。独裁者vs.民衆という構図のチュニジア、エジプトと、民衆内の階級闘争的色合いが濃いタイを同列に論じることはできるのだろうか。

 タイの対立構造は、国民の80%を占めるタクシン支持勢力と残り20%のバンコクのエリート層の闘争だけではなく、国王や軍といった「権力」も絡む相当複雑なものだ。チュニジアやエジプトのような「独裁者vs.民衆」的構図に落とし込めないから、国際社会の関心も呼びにくいし、運動そのものも爆発的な力を継続することが難しい。手詰まりだからこそ、「中東革命」に関心の集まる好機を利用して、半ば苦しいと知りつつICCへの提訴という一手を選択せざるをえなかったのかもしれない。

 とはいえ、タイで続く闘争は民衆同士の単なる「銭ゲバ」と言い切るべきではないだろう。記者会見場の大画面には、ずらりと並んだ完全武装のタイ国軍の兵士が大通りを進む写真が映し出されたのだが、その姿を見ていて30年前のある事件がフラッシュバックした。1980年の韓国・光州事件だ。

 迷彩服とヘルメットを身にまとい、小銃をもった兵士たちがこちらに向かって迫ってくる様子は、当時の全斗煥軍事政権の手先として「血の弾圧」を行った空挺部隊の姿と瓜二つだ。全斗煥政権は光州事件の犠牲者を「暴徒」「北のスパイ」呼ばわりしていた。もし韓国が民主化しなければ、光州事件は今でも「暴徒による騒乱」というレッテルを貼られたままだったかもしれない。

 タクシンが金大中なのかは分からない。ただタイ国軍が民衆に銃を向けたという事実は消えない(いわゆる「黒シャツ隊」が発砲の主犯なら、アピシット政権がとっくに検挙しているはずだ)。「階級闘争」だけで片付けるべき問題ではないだろう。

 それにしてもこの問題に対する日本政府、日本メディア、そして日本人の健忘症ぶりはどうしたことか。たしかに位置づけの難しい事件ではあるが、「邦人」であるロイター通信の村本博之カメラマンが射殺されているのだ。もうちょっと関心をもっていい。

――編集部・長岡義博(@nagaoka1969)

プロフィール

ニューズウィーク日本版編集部

ニューズウィーク日本版は1986年に創刊。世界情勢からビジネス、カルチャーまで、日本メディアにはないワールドワイドな視点でニュースを読み解きます。編集部ブログでは編集部員の声をお届けします。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

高市首相と植田日銀総裁、金融経済情勢巡り一般的な意

ワールド

英政府、国防費GDP比3%への引き上げ前倒し検討 

ビジネス

みずほ証券、監視委の調査認める 社員のインサイダー

ワールド

イラン外相、16日にIAEA事務局長と会談へ
MAGAZINE
特集:習近平独裁の未来
特集:習近平独裁の未来
2026年2月17日号(2/10発売)

軍ナンバー2の粛清は強権体制の揺らぎか、「スマート独裁」の強化の始まりか

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    なぜ「あと1レップ」が筋肉を壊すのか...「高速パワートレーニング」が失速する理由
  • 2
    【銘柄】マイクロソフトの株価が暴落...「AI懸念」でソフトウェア株総崩れの中、投資マネーの新潮流は?
  • 3
    「ヒンメルならそうした」...コスプレイヤーが消火活動する動画に世界中のネット民から賞賛の声
  • 4
    「目のやり場に困る...」アカデミー会場を席巻したス…
  • 5
    「罠に嵌められた」と主張するが...欧州で次々と摘発…
  • 6
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 7
    中国、パナマ運河の港湾喪失でパナマに報復──トラン…
  • 8
    それで街を歩いて大丈夫? 米モデル、「目のやり場に…
  • 9
    フロリダのディズニーを敬遠する動きが拡大、なぜ? …
  • 10
    世界市場3.8兆円、日本アニメは転換点へ――成長を支え…
  • 1
    ウクライナ戦闘機「F-16」がロシア軍「シャヘド」を空中爆破...地上から撮影の「レア映像」を公開
  • 2
    台湾侵攻「失敗」の大きすぎる代償
  • 3
    「最恐」恐竜T・レックスの定説を覆す新研究が
  • 4
    中国、パナマ運河の港湾喪失でパナマに報復──トラン…
  • 5
    「罠に嵌められた」と主張するが...欧州で次々と摘発…
  • 6
    ビジネスクラスの乗客が「あり得ないマナー違反」...…
  • 7
    【銘柄】マイクロソフトの株価が暴落...「AI懸念」で…
  • 8
    「ヒンメルならそうした」...コスプレイヤーが消火活…
  • 9
    がんは何を食べて生き延びるのか?...「ブドウ糖」の…
  • 10
    なぜ「あと1レップ」が筋肉を壊すのか...「高速パワ…
  • 1
    【クイズ】致死率50~75%...インドで感染拡大「ニパウイルス」の感染源となる動物は?
  • 2
    ウクライナ戦闘機「F-16」がロシア軍「シャヘド」を空中爆破...地上から撮影の「レア映像」を公開
  • 3
    高市積極財政にアメリカが慌てる理由
  • 4
    セーターが消えた冬 ── 暖かさの主戦場が「インナー」…
  • 5
    台湾侵攻「失敗」の大きすぎる代償
  • 6
    「最恐」恐竜T・レックスの定説を覆す新研究が
  • 7
    イースター島の先住民から資源を略奪、島を「生きた…
  • 8
    海上自衛隊が水中無人機(UUV)を導入 中国の海軍拡…
  • 9
    中国、パナマ運河の港湾喪失でパナマに報復──トラン…
  • 10
    防衛省が「新SSM」の映像を公開、ノルウェー・コング…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story