写真フィルムは楽譜だが、プリントされた写真は演奏だ――アンセル・アダムス(写真家)
写真の世界において、現実を操作することは現実を描写するのと同じくらい長い歴史をもつ。アメリカの南北戦争で遺体を並び変えたマシュー・ブレイディやアレクサンダー・ガードナーと同じことを、世界トップレベルの写真家たちがルワンダで行った。ロイターとロサンゼルス・タイムズ紙のカメラマンがレバノンとイラクでコンピューターを使って修正を行ったように、あのユージン・スミスも何枚ものネガを暗室で組み合わせて写真をでっち上げた。
スミスの名は、人道主義的な写真に対して毎年贈られる奨学金に冠され、その母体となるユージン・スミス・メモリアル基金の理事会には写真業界の多くの大物が名を連ねる。その一方で、レバノンにおける写真を修整したとして契約を打ち切られたロイターのカメラマン、アドナン・ハッジの例がある。
確かにハッジの写真は、スミスには遠く及ばない。それでも私は、なぜ写真界はハッジ(および同じように写真に手を加えた人々)を攻撃しながらスミスのことは賞賛し続け、彼がときどき暗室で真実を捏造していたという事実を無視するのか疑問に思う。
何人もの著名な写真家が、何年にも渡って写真を作り上げ、そのおかげで現在の地位を築いた人もいることはフォトジャーナリズム界の公然の秘密だ。だが世間の人々が知っているのは、見破られるほど出来の悪い写真を作ったハッジや、すでに亡くなり厳しい評価にさらされずに済んでいるスミスのようなケースだけだ。
前回紹介したフランス国民議会の法案が提案するように、写真家が根本から作り変えた写真はそのように明記されるべきだ。ニュース写真も、加工済みとの注釈を入れてみてはどうだろう?
どんな写真もある程度は人を欺くものだ。加えられたものより、取り除かれたものの方が大切なことも多い。そして長い間多くの写真家が使用してきたコダクロームやトライXといったフィルムで撮られた写真も、デジタルカメラで撮られたものと同様、現実そのものではない。
しかし世間は写真家が思う以上に賢明だ。彼らは創作や芸術的な演出の価値を理解している。だとしても、真実を描写したのではなく作り手の想像力が生み出した作品を見るときには、それが加工されたものだと警告を受ける必要があるだろう。