コラム

弾劾請求より重要な韓国社会の深刻な亀裂

2019年06月13日(木)18時10分

今のところ文在寅が弾劾にかけられる可能性はないが Jung Yeon-je/REUTERS

<文在寅大統領弾劾、というセンセーショナルな報道は伝えなかったが、韓国の請願制度は、主張が異なる相手を尊重しない激しい対立の象徴だ>

「文在寅大統領への弾劾請求が成立」──衝撃的な見出しが一部のメディアに躍ったのは今年5月末の事だった。このニュースを受けて、日本のメディアの一部ではあたかも朴槿恵前大統領同様、文在寅政権が弾劾ですぐにも崩壊するかのような記事さえあった。

だがこれらの記事をよく読むと、実態は全く異なる事がわかる。まず韓国憲法の規定により大統領が弾劾される為には、大きく二つの手続きが必要である。一つは国会による弾劾決議で、その為には大統領が「職務執行において憲法又は法律に違背」していることが必要である。弾劾案は国会議員の三分の一以上で提議され、三分の二以上の賛成で承認される。そしてもう一つの手続きが、憲法裁判所の審判である。この裁判所が弾劾の有効性を認めて大統領は初めてその職を失う事になる。

過去にこれらの手続きにかかった大統領は二人。2004年の盧武鉉への弾劾は国会での弾劾こそ成立したが、その有効性が憲法裁判所により否定された。この二つの手続きを経て正式に弾劾されたのは2017年に失職した朴槿恵ただ一人となっている。

議院内閣制における首相の解任とは異なり、大統領制における大統領の弾劾はそのハードルが著しく高い。議院内閣制における首相は議会により選任される存在であり、故に議会は信認を取り消すことによりいつでもこれを解任する事ができる。それ対して、大統領制における大統領は国民から直接選任される存在であり、故に議会はこれを自由に解任する事ができない。だからこそ議会は大統領を弾劾するに当たってはその行為の違法性を証明せねばならず、その証明の妥当性が裁判所によって審査される事が必要になる。

弾劾手続きが始まる可能性は皆無

そして今回の事例である。韓国憲法の規定によれば、弾劾を提起出来るのは国会だけであり、その手続きにおいて国民の請願等は規定されていない。そもそも今回の請願は国会に対してではなく、大統領府に対して行われたものである。もちろん、大統領府及び大統領には自らを「弾劾」する権限は存在しないから、ここから「弾劾」に関わる手続きが直接開始される可能性は存在しない。そもそも大統領が、国会に対して自らの行為の違法性を示し、「弾劾」を促すくらいなら、自ら辞任した方が早いに決まっている。

それでは今起きている事は何なのだろうか。発端として、この「請願」がどういう制度で行われているかが重要である。ここで言う請願制度は2017年8月、文在寅政権が米ホワイトハウスの請願制度を真似て作り上げたものであり、これによれば大統領府のホームページに対して行われた請求が20万人以上の賛同を集めた時には、政府が何らかの「回答」を行う事になっている。今回「成立」したのは、この請願である。故に行われるのは、大統領府がこれに「回答」する事だけである。

プロフィール

木村幹

1966年大阪府生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科教授。また、NPO法人汎太平洋フォーラム理事長。専門は比較政治学、朝鮮半島地域研究。最新刊に『韓国愛憎-激変する隣国と私の30年』。他に『歴史認識はどう語られてきたか』、『平成時代の日韓関係』(共著)、『日韓歴史認識問題とは何か』(読売・吉野作造賞)、『韓国における「権威主義的」体制の成立』(サントリー学芸賞)、『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識』(アジア・太平洋賞)、『高宗・閔妃』など。


あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

原油先物は小幅反落、ベネズエラ情勢やロシア供給リス

ワールド

米農務省、5カ月で職員2割が離職 トランプ政権の人

ビジネス

米ウーバーとリフト、中国百度と自動運転タクシー試験

ワールド

米政府、ブラウン大学の安全対策再検討へ 銃乱射事件
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ISSUES 2026
特集:ISSUES 2026
2025年12月30日/2026年1月 6日号(12/23発売)

トランプの黄昏/中国AI/米なきアジア安全保障/核使用の現実味......世界の論点とキーパーソン

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低く、健康不安もあるのに働く高齢者たち
  • 2
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 3
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリーズが直面した「思いがけない批判」とは?
  • 4
    【外国人材戦略】入国者の3分の2に帰国してもらい、…
  • 5
    「信じられない...」何年間もネグレクトされ、「異様…
  • 6
    週に一度のブリッジで腰痛を回避できる...椎間板を蘇…
  • 7
    「個人的な欲望」から誕生した大人気店の秘密...平野…
  • 8
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入ともに拡大する「持続可能な」貿易促進へ
  • 4
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
  • 5
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 6
    「最低だ」「ひど過ぎる」...マクドナルドが公開した…
  • 7
    自国で好き勝手していた「元独裁者」の哀れすぎる末…
  • 8
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低…
  • 9
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 10
    空中でバラバラに...ロシア軍の大型輸送機「An-22」…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 4
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 5
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 6
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 7
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
  • 8
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 9
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 10
    兵士の「戦死」で大儲けする女たち...ロシア社会を揺…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story