コラム
東京に住む外国人によるリレーコラムTOKYO EYE
イラン人監督が日本映画に込めた思い
今週のコラムニスト:レジス・アルノー
普通に考えたら、私のようなフランス人が西島秀俊や常盤貴子を主役に映画を撮れるチャンスはどれくらいか? ゼロだ。読者の皆さんも、「何を夢みたいなことを」と思うだろう。ところがこの数週間、そんな夢みたいな現実を私は心から楽しんでいる。
今年6月、私は友人のエリック・ニアリとエンギン・イェニドゥンヤと共に、映画『CUT』のプロデユーサーに名を連ねることになった。07年にフランス国立劇場の劇団員による銕仙会能楽研究所(東京・南青山)での公演をプロデュースしたことがある私に、イラン人の友人が『CUT』を手伝わないかと持ちかけてきたのだ。
『CUT』は日本映画だが、監督はイラン人のアミール・ナデリ。ナデリは存命するイラン人監督としては最も偉大と言え、日本映画の専門家としても世界有数の人物だ。
ナデリが西島と一緒に『CUT』の製作に取り掛かったのは7年前のこと。『CUT』の物語は、ナデリの映画監督としての実体験から生まれた。主演の西島と会って、主役である若き映画作家、秀二のイメージが出来上がっていった、とナデリは言う。ストーリーは、兄の借金をヤクザに返すために「殴られ屋」を始める秀二を中心に展開していく。脚本はナデリと、日本の素晴らしき映画監督である青山真治が手掛けた。
私たちは『CUT』を商業映画ではなくインディペンデント映画にするために、個人投資家が1口100万円でスポンサーになれる仕組みを作った。それから、出演者や技術スタッフを探し始めた。私たちが協力を求めた人々は総じて、このプロジェクトにとても乗り気だった。
例えば大スターの常盤貴子。彼女は難しい役どころの主演を引き受け、髪を切ってすっぴんで撮ることにも同意してくれた。菅田俊や笹野高史、芦名星などのすばらしい俳優たちもすぐに私たちのチームに加わった。
技術スタッフも、日本で最高の人材が集まった。どうやら日本人出演者・スタッフはみな、いつもとは違う作品作りができて、それを海外で上映できる貴重なチャンスだと思ってくれたようだ。『CUT』は完成後、カンヌやベネチアなどの国際映画祭でプレミア上映し、それから日本で公開される予定だ。
■『スター・ウォーズ』の誕生は日本映画のおかげ
かつての日本は、映画の世界でひときわ輝く存在だった。日本映画は日本社会を鏡のように映し出し、日常における様々な対立関係――男対女、父対息子、田舎対都市――を題材にしていた。藤田敏八監督の71年の作品『八月の濡れた砂』で若者たちが大人に立ち向かったように、こうした「対決」こそが偉大な日本映画を生み出していた。
最近『八月』を観た私は、日本はなんて変わってしまったんだと思った。経済が成長するに連れて平和で退屈になり、誰かと対決することすらなくなった。今の日本はまるで、それぞれの具の味が主張することをやめて1つに溶け込んだ「おでんのスープ」のようだ。もしくは、水が替えられることのない水槽といったところか。
古き良き時代の日本映画には、国境や時を越えた魅力がある。例えばジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』や、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』を見ればよくわかる。
『スター・ウォーズ』の物語は、黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』『用心棒』『椿三十郎』などからインスピレーションを得たという。つまり、黒澤がいなかったら『スター・ウォーズ』は生まれなかった。新感覚のアクション映画『キル・ビル』は、深作欣二監督の作品から大きな影響を受けている。
どれほどの日本人が、世界中を熱狂させたこの2つの作品が日本映画なしには存在しなかったことを知っているだろう。日本政府は、世界にアピールする「ソフトパワー」を育てたいと盛んに言う。それなのに、あらゆるメディアの集合体である映画には国の資金を回そうとしない。
日本で唯一の国立映画機関「東京国立近代美術館フィルムセンター」(東京・京橋)も資金不足で、パリにあるシネマテーク・フランセーズとは比較にもならない。フランスやイギリス、カナダとは違って、日本には映画製作費について税制優遇がない。日本の主要映画製作会社は、国内の観客向けに中途半端な作品をつくることにしか興味がないようだ。
■日本映画への愛は外国人の方が深い
日本人監督や俳優がカンヌやベネチアなどの国際映画祭で受賞するという偉業を成すと、日本のメディアからは大喝采が起こる。しかし、こうした作品が日本映画界の「おかげ」ではなく、「にもかかわらず」誕生した理由について解説してくれるメディアはほとんどない。
今や日本映画といえば人気ドラマの拡大版ばかり。映画館は「巨大なテレビ画面」になっている。公開される外国映画の数は減る一方で、外国映画の配給会社もどんどんつぶれてしまっている。
日本の映画関係者はみな、日本映画の衰退に気付いているはずだ。『CUT』の制作当初から関わっている西島は、ほかの出演者と同じように日本の古典映画をこよなく愛し、現在の日本映画産業の状況を嘆いている。
現実問題として、日本でこの状況をなんとかできる人はほとんどいない。皮肉なことに、日本人にはできない改革の自由を手にしているのは私たち外国人のほうだ。
世界と日本の間に立ってみると、日本映画に対する海外からの愛情と、国内からの関心には溝があることが分かる。『CUT』の関係者は、財政面でも芸術面でも独立した映画をつくることでこの溝を埋めたいと思っている。主人公の秀二のように、私たちは日本映画のシステムに捕らわれることなく夢を追いかけようとしている。
50~60年代に起きたヌーベルバーグ(新しい波)を率いたフランスの映画監督フランソワ・トリュフォーはこんな言葉を残している――「映画とは、暗闇の中を走る列車のようなものだ」。『CUT』の制作チームは今、この列車に乗って走り続けている。次の停車駅はあなたの近くの映画館。来年の公開時には、読者の皆さんも切符を買って私たちの列車に乗り込みませんか?
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