コラム

米ハイテク業界「引き抜き阻止」協定の裏にある拝金主義の病根

2012年01月31日(火)16時31分

 シリコンバレーの大手テクノロジー企業が、互いに「引き抜き阻止」協定を結んで反トラスト法(独占禁止法)に問われ、和解が成立した訴訟が、今まったく別の観点から蒸し返されようとしている。

「引き抜き阻止」協定は、アップル、ピクサー、グーグル、インテル、アドビなど7企業が、それぞれに協定を結び、互いの社員を引き抜くことをやめようと申し合わせたというもの。2005年から2007年頃までの間、各社のトップ同士がいわば「紳士協定」のようなかたちで約束したとされ、最初はピクサーとルーカス・フィルムが、次にアップルとアドビが、そこからアップルとグーグル、アップルとピクサー、グーグルとインテルおよびインテュイットへと、どんどん拡大していった。

 2010年には、司法省が調査に入った。ほぼ同一の協定が業界内に広まっていることで、独禁法違反を疑われたためだ。その時は、今後同様の協定は結ばないことを条件に、ほとんどの企業と同省との間に和解が成立した。

 それが今回、新たな証拠と共に蒸し返されたのだ。今回は、こうした引き抜きが葬られたことによって、各社の社員が「給料が不当に抑圧された」ことを訴える集団訴訟に発展しそうだ。

 このできごとは、幾層にも重なったかたちで、シリコンバレーのゆがんだ現状を表している。

 ひとつはもちろん、過剰な引き抜き競争。背景にあるのは、テクノロジー企業の急速な成長だ。たとえば、フェイスブックは2年ほど前に社員数が1000人を超えたが、最近移転したシリコンバレーの新しいキャンパスは、2017年までに9400人を収容できるキャパシティーを備えている。この数は、シリコンバレーの本社だけの数字なので、全世界的にはもっと大きくなるはずだ。

 この成長ぶりは、不況に悩む他業種とは顕著な違いだろう。テクノロジー各社は、成長を支えるために常に新しい社員を必要としている。かくして、なりふり構わぬ企業間の引き抜き合戦が激化しているわけだ。

 条件次第で企業を渡り歩くエンジニアやプログラマーたちの存在も大きい。ヘッドハンターから転職の誘いがあった際、彼らはそれに乗るか乗らないかを決めるだけではない。たとえば、A社に務めるプログラマーにB社から引き抜きの話があるとしよう。この場合、もちろんB社はA社よりも高い給料や好条件でのストック・オプション(自社株購入権)付与をちらつかせているはずだ。A社での仕事にホトホト飽きているのならば、すぐに誘いに乗るだろうが、たいていはその前にもう一段階ある。つまり、このプログラマーは上司や人事部に対して、「こういう誘いがあるが、もし給料をB社の言い分よりも上げてくれるのならば、ここに残ってもいい」とネゴするのだ。

 したがって、A社にとっては、社員に引き抜きの打診があっただけで昇給させなければならなくなるわけで、こんなことを何としてでも食い止めたいと考えた企業トップらが、苦肉の策で上記のような協定に及んだのも想像がつく。とは言え、有能なエンジニアらの機会を意図的に奪い、報酬を人為的に抑制したことはまぎれもない事実だ。この動きの中心にいたのは、スティーブ・ジョブズらしいが、グーグル現会長のエリック・シュミットやアドビのトップらがやりとりしたメールも証拠として出されている。

 ところが、こんな引き抜き競争の裏で、別の現実も進行している。それは、年を取ったエンジニアやプログラマーはシリコンバレーでも就職難に遭っていることだ。この業界でのテクノロジーは年々加速度的に陳腐化し、知っていたプログラム言語が数年後には使えなくなることもままある。それだけではない。若者が慣れ親しむソーシャル・ネットワークが主流を占めるようになるにつれ、シリコンバレーの就職環境では年齢差別がまかり通っているのではないかと言われている。エンジニアたちのフォーラムを覗くと、「歳をとりすぎているっていうのは、いったい何歳くらいのこと?」といったような会話がよく見られる。引く手あまたは20代、40代も半ばを過ぎると「年寄り」の部類だ。こうした偏りは、広告も投資も消費も含めた社会全体が、若者のテクノロジー文化を過剰にもてはやしていることの反映でもあるだろう。

 一面から見れば、実力主義、自由競争、進取の精神。だが別の面から捉えれば、カネ優先、忠誠心ゼロ、流行第一。シリコンバレーも見方によるが、近年の引き抜き競争の激化で後者の性質がいやおうなく強まっているのは確かなようだ。

プロフィール

瀧口範子

フリーランスの編集者・ジャーナリスト。シリコンバレー在住。テクノロジー、ビジネス、政治、文化、社会一般に関する記事を新聞、雑誌に幅広く寄稿する。著書に『なぜシリコンバレーではゴミを分別しないのか? 世界一IQが高い町の「壁なし」思考習慣』、『行動主義: レム・コールハース ドキュメント』『にほんの建築家: 伊東豊雄観察記』、訳書に『ソフトウェアの達人たち: 認知科学からのアプローチ(テリー・ウィノグラード編著)』などがある。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米EV税控除、一部重要鉱物要件の導入2年延期

ワールド

S&P、トルコの格付け「B+」に引き上げ 政策の連

ビジネス

ドットチャート改善必要、市場との対話に不十分=シカ

ビジネス

NY連銀総裁、2%物価目標「極めて重要」 サマーズ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受ける瞬間の映像...クラスター弾炸裂で「逃げ場なし」の恐怖

  • 2

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS攻撃「直撃の瞬間」映像をウクライナ側が公開

  • 3

    ウクライナ軍ブラッドレー歩兵戦闘車の強力な射撃を受け、炎上・爆発するロシア軍T-90M戦車...映像を公開

  • 4

    テイラー・スウィフトの大胆「肌見せ」ドレス写真...…

  • 5

    サプリ常用は要注意、健康的な睡眠を助ける「就寝前…

  • 6

    ロシア軍「Mi8ヘリコプター」にウクライナ軍HIMARSが…

  • 7

    ロシア軍の拠点に、ウクライナ軍FPVドローンが突入..…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミ…

  • 10

    「TSMC創業者」モリス・チャンが、IBM工場の買収を視…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドローンを「空対空ミサイルで撃墜」の瞬間映像が拡散

  • 3

    どの顔が好き? 「パートナーに求める性格」が分かる4択クイズ

  • 4

    AIパイロットvs人間パイロット...F-16戦闘機で行われ…

  • 5

    ロシア兵がウクライナ「ATACMS」ミサイルの直撃を受…

  • 6

    「2枚の衛星画像」が伝える、ドローン攻撃を受けたロ…

  • 7

    屋外に集合したロシア兵たちを「狙い撃ち」...HIMARS…

  • 8

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 9

    ロシアの大規模ウクライナ空爆にNATO軍戦闘機が一斉…

  • 10

    メーガン妃の「限定いちごジャム」を贈られた「問題…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story