中東にとっての「広島・長崎」
「アメリカは原爆を投下して戦争を終わらせたことで、数百万人の命を救ったのだというが、そんな歴史は勝者の論理だ。事実は、日本がそれによって飢餓状態に陥り、生活と産業のインフラを破壊されたということにある。なので、頼るものもないアラブの市民のひとりとして、私はエジプトやサウディに核軍事開発を進めるよう求める。」
ちなみに、イスラエルがパレスチナのハマースを攻撃する論理として「アメリカの日本への原爆投下の正当性」を挙げているのは、対照的だ。昨年8月に発行されたイスラエルのフリーペーパー「イスラエル・ハヨム」は言う。「日本はハマースじゃないしイスラエルはアメリカじゃない。でもイスラエルは過去の日本とアメリカから教訓を得ることができる。日本はカミカゼ攻撃を行ったけれど、成功せず、原爆というたいへんな代償を払った。...ハマースを力づくで無力化するしか、我々には道はない」
ところで、2008、9年頃のアラブ・メディアの主張を見ていると、興味深い記事に出会った。カタールの日刊紙シャルクに寄稿したクウェートの宗教指導者の主張だが、上記のハヤート紙の記事同様、アラブ諸国に核軍備開発を促すもので、「過去に核開発に携わった科学者のいるエジプトと湾岸諸国のふんだんな資金を合わせれば、核開発なんて簡単だ」と述べる。そして、言う。「イラクで起きたことは、教訓とすべきだろう。イラクで核施設が破壊され、政権が転覆され、科学者や知識人が殺害されたことを見て、同じ道を歩むべきかどうか、考えなければならない。」
何が興味深いかというと、この論考を書いたナビール・アワーディは、現在「イスラーム国」(IS)の資金援助元と言われ、クウェート政府によって市民権を取り消された人物だということだ。「原爆の被害者」という日本の経験は、アラブやイスラエルや、中東のさまざまな主体によって好きなような解釈され利用され、はては「イスラーム国」にまでつながっている。「原爆でやられて戦争に負ける」→「敵の圧倒的な力で民が蹂躙され政権が倒される」→「誰にも邪魔されない新しい国を作って外敵に対抗しよう」=「核武装したイスラーム国」、というわけだ。
そうなのか。被爆の教訓は本当に、私たちが抱いてきた「過ちは2度とくりかえしませぬから」の思いから程遠い形でしか、中東に伝わっていないのか。
今年春、エジプトの大手紙「アハラーム・ウィークリー」に、カイロ・フランス文化センターが主催する「若手クリエーター・フェスティバル」の記事が掲載されていた。そこで、若手による優れた演劇として取り上げられた作品のひとつに、井上ひさし原作の「父と暮らせば」がある。新進気鋭のムハンマド・ハミースが演出、主演した舞台で、昨年秋、国際交流基金の後援を受けてアレキサンドリアで上演されたものだ。今年初めには、「はだしのゲン」のアラビア語訳がカイロで出版されている。昨年初来日を果たしたパレスチナのラップグループ、DAMは、「沖縄に連帯!」と叫んでいた。
「広島、長崎を見たい」という中東からの客たちに、私たちの被ばくからの教訓を、どう伝えるか。反米にも核開発競争にも力による敵の殲滅にも利用されない、ただ「2度と繰り返してはならない」意識で、つながり合う方法はあるはずだ。世界とどうつながるかを考えることは、私たち自身が自分たちの「戦後」を、きちんと認識することに他ならない。
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