コラム

イラクはどこまで解体されるか

2014年06月13日(金)19時56分

 6月10日に北部モースルが陥落して以降、イラク分裂の危機が現実性を持って語られるようになった。「イラクとシャームのイスラーム国」(ISIS)勢力は、北はモースルからティクリートまでを、西はファッルージャからバグダードに向かうルートを制圧し、さらに東方のディヤーラ県まで勢力を拡大している。ISISの制圧地域が地理的に「スンナ派地帯」だからというので、「イラクの宗派別分裂」が言われるのだが、事態はより深刻だ。なぜなら、分裂は地理上の問題ではなく、現政府が一つのまとまった国家領域としてのイラクを守ろう、という意思と能力がないことが、露呈されたからだ。

 モースルが陥落した際に、これを守るべきイラク国軍はさっさと逃げたと、前回のコラムで述べた。イラク国軍や警察は、イラク国民をではなく、自らの宗派や民族を守ることにばかり、専念しているのだ。それだけではない。マーリキー首相をはじめとして、政府要人たちの間に一丸となって自分たちの国であるイラクを守ろう、という意識が見られない。国会で決定されるべき「非常事態宣言」も、議員の3分の1しか出席せず、決定できなかった。

 なによりも気になるのが、与党シーア派政治家たちから「シーア派聖地のナジャフとカルバラを死守せよ」といった発言が聞こえることである。シーア派のサドル潮流は、北部のサマッラー(スンナ派の居住地だがシーア派の聖廟がある)を防衛するために、サドルシティー(バグダード北東部にあるシーア派地区)の住民に向けて、民兵招集の呼びかけをしたようだ。イランから革命防衛隊の支援を期待するといった声も、聞こえてくる。危機に瀕して自分たちの支持基盤しか守ろうとしない現政権や政治家に対して、国民が愛想をつかさないはずはなかろう。

 ちなみに、ISIS攻勢のどさくさに紛れて北部のクルド勢力は、現政権下で長らく係争中であるキルクークを手中にいれた。これまた、クルド民族以外のイラク国民を救うよりも 先に、自勢力の利益優先で動いている、露骨な例だろう。

 ところで、今危惧されている最悪のことは「イラクが3つに分裂する」ことなのだろうか? 逆である。「聖地を死守せよ」とシーア派の与党勢力が慌てているのは、今やそこまで防衛線が下がっていることの証だ。むしろ危惧されているのは、ISISがさらに南下し、イラク全域を手中に入れることである。それは、シーア派社会全体の殲滅をもたらしかねない。

 ISISは、スンナ派のイスラーム主義の組織である。ISISにとってシーア派はイスラーム教徒とは認められない、敵対相手だ。かつてサウジアラビア建国期に、ワッハーブ派勢力がイラクに侵入してシーア派聖地を襲撃した歴史もある。だが、あえて今、シーア派地域まで一気に征服の野望を抱くだろうか?

 問題は、今回のISISの進軍には、呉越同舟的にさまざまな勢力が関与しているらしいことだ。なかでも、ISISと連携しているナクシュバンディー教団部隊は、フセイン政権時代のバアス党No.2だったイッザト・イブラヒームが指揮していると言われている。なるほど、ISISがここまで本格的な軍事侵攻を進められた背景には、旧バアス党勢力や、イラク戦争後に解体された旧軍や旧治安機関など、戦闘の元プロが関与していたからだと考えれば、納得がいく。

 ISISがスンナ派地域にイスラーム国を建設することを目的としているなら、イラクとシリアのスンナ派地域を制圧したところで、いったんは満足するかもしれない。だが、旧バアス党や旧軍など、旧体制勢力がイラク戦争で奪われた権力を再び取り戻しにやってきたのだとしたら、その目的はイラク全土の奪還にある。与党シーア派政治家は、「旧体制が権力を奪還した統一イラク」になるぐらいなら、「イラクの分裂」を死守すべき、と考えているのだ。

 そして、そのためにイランの手も借りざるを得ない、と判断したら、そこで展開されるのは、30年前に旧フセイン政権が戦ったイラン・イラク戦争の再現になるのではないか。しかも、前線をイラク国内に移して、である。

 イラクはいったい、どこまで「解体」されるのだろう。イラク戦争前のフセイン政権時代に戻されるのだろうか。イラン・イラク戦争が行われていた80年代か。それとも、イラクとシリアにイスラーム国が成立してオスマン帝国時代の「カリフ制」を再興する、100年前の第一次世界大戦以前にまで、戻そうとするのだろうか。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

米バークシャー、24年は3年連続最高益 日本の商社

ワールド

トランプ氏、中国による戦略分野への投資を制限 CF

ワールド

ウクライナ資源譲渡、合意近い 援助分回収する=トラ

ビジネス

ECB預金金利、夏までに2%へ引き下げも=仏中銀総
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    メーガン妃が「アイデンティティ危機」に直面...「必死すぎる」「迷走中」
  • 4
    深夜の防犯カメラ写真に「幽霊の姿が!」と話題に...…
  • 5
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 6
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 7
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 8
    トランプが「マスクに主役を奪われて怒っている」...…
  • 9
    細胞を若返らせるカギが発見される...日本の研究チー…
  • 10
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 4
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 9
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 10
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
  • 10
    「DeepSeekショック」の株価大暴落が回避された理由
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story