コラム
酒井啓子中東徒然日記
イラン、UAE、バハレーン: もうひとつの島を巡る争い
9月末、野田首相が国連総会の場で、もやもやとながら領土問題に触れた演説を行ったあと、より激烈な言葉で領土への主張を繰り返した国があった。
中国や韓国ではない。アラブ首長国連邦(UAE)である。ペルシア湾の三つの島、アブー・ムーサ島、大トンブ島、小トンブ島(うち後者二島はほとんど無人)は、本来UAEのものなのに、イランが1971年以来「実効支配」している、だからぜひ国際司法裁判所で裁いてほしい、と主張した。
ペルシア湾岸地域は、領土紛争の地雷原である。そもそもイラン・イラク戦争が1980年に発生したのも、両国間国境のシャットル・アラブ川のどこを境界とするか、歴史的に繰り返しもめ続けてきた結果、起きたものだ。湾岸戦争も、イラクが「クウェートは歴史的にイラクに相当する行政区域の管轄下だった」と主張して、これを併合したことに始まる。
ペルシア湾の国々は長らくオスマン帝国とペルシア帝国の境界にあり、両国の覇権抗争に振り回されてきた。しかも、近世から近代までのアラビア半島地域は、砂漠では遊牧部族が、海では海洋交易に携わる人々が、国境などお構いなしに生活していた。諸部族は、自らのテリトリーを守るために、ときにオスマン帝国の、ときにイランの国旗を立てて、対立に巻き込まれないよう、八方美人外交で両者の間を掻い潜ってきたのである。19世紀以降イギリスがこの地域に進出すると、その庇護をうまく利用しつつ、1971年にはすべての湾岸諸国が独立した。
UAEとイランの間の領土紛争も、歴史的な八方美人政策の結果である。歴史を遡ればどちらかに軍配があがる、というほど、簡単ではない。同様にイランが長年主権を主張してきたバハレーンに対して、とりあえず独立が認められたのには、イギリスがUAEの三島をイランに認めるかわりに、バハレーンを諦めさせた、という顛末がある。今年七月にイラン政府高官が「UAEはイランの許しを得て建国できたようなものだ」と鼻息荒い発言をしたのは(「日本語で読む中東メディア」)、そんな背景からくるものだろう。なので、歴史を紐解いても解決にはならない。
だが、なぜUAEは突然、イランによる三島支配を糾弾し始めたのか。その原因には、今年四月にアフマディネジャード大統領がアブー・ムーサ島を訪問したことがある。その2週間後には、イラン海軍が同島に配備されていることが明らかになった。こうした動きは、今年初めに導入された米国の対イラン制裁が大きく関係するものだ。対岸のアラブ諸国は、駐留米軍の存在もバックに、ここはイランを追い詰めたいところだし、一方のイランは、制裁の手が強まればホルムズ海峡封鎖も辞さずと、強硬な姿勢を見せている。
さらにさかのぼれば、2011年三月のバハレーンでの「アラブの春」がイランと湾岸アラブ諸国との間の緊張を高めた。これまでも書いてきたが、バハレーンで起きた反王政デモは、サウディアラビアなどGCC諸国による軍事介入で鎮圧された。一方、バハレーンの国民の大半を占めるシーア派住民に対して、せっせとエールを送ったのが、イランである。すわ、イランがペルシア湾の他の島にも実効支配を広げようとしているのでは、と疑心暗鬼になったGCC諸国では、この5月、バハレーンをサウディアラビアに合併させようとの話が浮上した。こうして、イランとサウディアラビアの間でペルシア湾内の島取り合戦が再び始まったのだ。
小さな島を巡る領土争いは、それだけで突然きな臭くなるものではない。米・イラン関係、イラン・サウディアラビア関係(シリアを巡る両国の対立も関係してくるだろう)など、さまざまな政治的思惑が絡んで領土が問題となる。言い換えれば、領土と軍事で解決できるものではなく、その背景にある政治問題に取り組まなければ、根本的な解決にはならない。
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